親鸞・去来篇 2015年2月19日

 眠ろうと努めてさえ眠れないでいる所へ、耳近くで、琵琶を掻鳴らされては、なおさら眠れようはずがない。

 弁(べん)円(えん)は、横になりかけたが、憤(む)ッと、身を起して、

「やかましいっ」と、音のするようへ、呶鳴りつけた。

しかし、琵琶は、やまない。

超然と、平家を謡(うた)っているのである。

「やめんかっ」といって、つづけざまに、

「こら、乞食法師!」と罵(ののし)った。

すると――はたと、撥(ばち)をおいて、

「なんじゃの、山伏どの」と、彼方(あなた)でいう。

「眠りの邪魔になるからやめろというのに、聞えないか」

弁円が、権(けん)ぺいに叱ると、

「ここは眠る場所ではありませんが」

と、琵琶法師も負けずにいい返す。

弁円は、いよいよ業(ごう)を沸(に)やして、

「では、琵琶を弾(ひ)く場所か」

「興がわけば、琵琶はどこででも弾くのです。しかし、眠りは、そういうものではありません。人間の起居には、おのずから、嗜(たしな)みというものがあるはずです」

「生意気な」と、杖を横につかんで彼は起ってきた。

逃げるかと思いのほか、琵琶法師は琵琶をかかえて泰然たるものである、撲(なぐ)りそうな人間を前にして、見えない眼でじっと、見ているのである。

「盲目か」弁円がつぶやくと、

「盲目は、お手前の事であろう、わしは、肉眼はつぶれているが、心眼は開(あ)いている、いやはや、未熟な山伏どのじゃ」

と、盲目は薄く笑う。

見ると、この法師も、河原の橋下を、一夜の宿として明かす者らしく、石ころの上に菰(こも)を敷き、それへ薄汚い包みや持物を置いて、自分は、水際(みずぎわ)の石に腰をすえていた。

加古川の教信沙(しゃ)弥(み)の成れの果て――かの峰(みね)阿(あ)弥(み)なのである。

「おれを未熟といったな。どこが、なんで、未熟かっ」

「されば――あなたは役(えん)の優(う)婆(ば)塞(そく)が流れを汲む山伏ではないか」

「そうだ」

「樹(じゅ)下(げ)石上(せきじょう)はおろかなこと、野獣や毒蛇の中でも平然と眠れるぐらいな修行がなくて、山伏といわれましょうか、峰入りは何のためになさるか、兜(と)巾(きん)、戒(かい)刀(とう)、八ツ目の草鞋(わらんじ)は、何のために身につけておらるるのか。琵琶の音に眠れぬなどとはいとおかしや。……思うにおぬしは、何か、腹にわだかまりがあるのじゃろう、はははは」

心眼が開いているといったのも決して大言ではないかもしれぬ。

弁円は、肚の底まで見透かされたような気がして、ややしばらく、じっと峰阿弥の面(おもて)を見つめていたが、

「ウーン、なかなか面白い理窟をこねる奴だ、それほど、人の心がわかるなら、俺がなにを思っているか、それも分るか」

「わからいでか」

「おぬしは、綽空が、月輪殿の姫と婚儀を挙げることを怒っているのじゃ」

「ばかっ、それは今、俺が独り言に洩らしたのを聞いていたのだろう。そんな知れきったことでなく、俺が、それについて、なにをするか、胸で思っていたことをあててみろというんだ」

「わしは、陰陽(おんみょう)師(じ)ではないから、そんな先のことは知らん……」