正定聚(しょうじょうじゅ)という言葉は、もしかすると初めて目にされる言葉かもしれませんが、浄土真宗ではとても大切な言葉です。
「正定」とは
「まさしくさだまる」、
「聚」とは
「あつまり・仲間」
といった意味です。
「正定聚」
は、仏道の中で使われている言葉ですから、これは、
「仏になることが決定付けられている仲間達」
という意味になります。
私たち仏教徒の共通の願いは、仏になることだといえます。
それは、釈尊のように何ものにも動じない、常に静寂で澄みきった心になることにほかなりません。
したがって、仏になることが正しく定まる、この正定聚の位につくことは、仏道者にとっての最高の喜びになります。
そこで、この地位を
「歓喜地」
とも呼び、また二度と迷いの世界に退転しないという意味から
「不退転地」
とも言います。
したがって、仏道者にとっては、この正定聚に至ることが最大の理想となるのですが、同時に正定聚に至って初めて真の仏道を行じることが出来るようになります。
仏教では、この境地に達した仏道者を菩薩と呼び、またこの最初の地を
「初地(しょじ)」
と名付けます。
七高僧の龍樹菩薩や天親菩薩は、この初地の菩薩です。
ただし、この世でこの地に達することが出来るのは、極めて優れた数少ない方々だということになります。
大多数の凡人は、いかに一心に仏道を修したとしても、残念ながらこの世では正定聚の位には至り得ないといわなければなりません。
そこで阿弥陀仏は、四十八願の第十一願に
「この浄土に生まれた者は、必然的に自然に正定聚に住す」
と誓われたのです。
こうして、どのような凡夫でも、
「本願を信じ念仏を称えて浄土に生まれ、たやすく正定聚の位に至ること」
が可能になったのです。
だからこそ、人々は浄土に生まれたいと願ったのです。
ところが、このような浄土教一般の見方の中にあって、ただ一人親鸞聖人だけは
「念仏者のみはこの世で正定聚になる」
と解されました。
それは、阿弥陀仏は本願に一切の衆生を救うために
「南無阿弥陀仏」
となって、衆生の心に徹入すると誓われているからです。
この道理からすれば、念仏を称えている衆生の心には既に阿弥陀仏がましまして、その衆生を摂取していることになります。
親鸞聖人はこの真理を
『浄土和讃』に
「念仏の衆生をみそなはし摂取して捨てざれば阿弥陀となづけたてまつる」
と讃仰しておられますが、阿弥陀仏は念仏者を救うために、南無阿弥陀仏という名号を成就されたのです。
念仏者は、すでに阿弥陀仏に摂取されているのです。
それ故に
「念仏者は無碍の一道」
だといわれます。
念仏を称えている者は、仏果への道は正しく定まっています。
ただし、たとえその道が決定しているとしても、もし念仏者がこの真理に気付きえなければ、いかに念仏を称えても、それは詮なきことといわねばなりません。
したがって、自らの全身でこの弥陀の大悲を信知し歓喜する時、人は初めて正定聚になるのです。