「自信教人信」
というのは、中国の初唐時代の高僧、善導大師の言葉です。
善導大師は、私たちにとって最も重要なことは、阿弥陀仏のみ教えをまず自ら一心に信じ、そしてその教えの尊さを未だ信じていない人々に伝えて、信ぜしめることだと言われているのです。
私たちはいま、たまたま人間としてこの世に生まれてきています。
それは、まことに偶然としか言いようがなく、この私にとってこれほど希なことは他にはありません。
しかもその中にあって、私たちは仏法を聞くという機会に恵まれています。
さらに幸いなことに、この私はその仏法を聞き信じ喜ぶという智慧を頂いているのです。
これこそまさに難の中の難というべき奇跡的に希有なことなのです。
なぜなら、阿弥陀仏の法門は、仏法の中で最も信じ難い、難信の法だからです。
その法を信じ喜ぶ因縁がいまこの私自身に起こっているのです。
私は阿弥陀仏のみ教えを聞いて、信じ喜ぶという身に育てられています。
とすれば、仏者として私がなすべき道はただ一つだと言えます。
それは阿弥陀仏の法門が、私の悩める心を喜びに転じたのですから、私自身もまたその念仏の功徳を讃嘆して、他の人々にその教えを伝える。
それが私の道になるからです。
周囲には、阿弥陀仏の教えを聞く縁に恵まれていないために、深い悩みに陥っている多くの人々がいます。
その人々に阿弥陀仏の教えを伝えて、その心を私と同じ喜びに転ぜしめる。
それが念仏者として当然の、最も大切な道なのです。
けれども、実はこの仏道の実践こそ難中の難であって、これ以上の難はないと言わねばなりません。
なぜなら、阿弥陀仏の大悲の法はその不可思議さの故に、釈尊の説法でもなかなか信じることができない人が多いのに、この難信の法を凡夫である私が説法して、人々に信ぜしめようとしているからです。
そこで、善導大師はこの念仏の実践を称えて、
「自ら信じ、人を教えて信ぜしめ」
阿弥陀仏の大悲の法を伝えて、一切の凡夫を教化する仏道こそ、真に仏恩を報ずる道だと述べられるのです。
ところが親鸞聖人は、善導大師の
「自信教人信」
の教えを受けながら、この言葉を大師とは少し違った意味に解釈されます。
「南無阿弥陀仏」
をただ称えるのみで、いかなる凡夫も直ちに浄土に生まれるという教えはあまりにも不可思議であって、たとえ釈尊の説法でも信じ難いのであれば、
「自信教人信」
の仏道は凡夫には不可能ということになるからです。
そこで親鸞聖人は、凡夫が阿弥陀仏の大悲の法を伝えるのではなく、大悲の法はそれ自体の功徳によって弘く伝わるのである。
したがって、凡夫はその大悲の法をただ聴聞して、信心歓喜すればよい。
ただ信心歓喜することこそが、まさしく真に阿弥陀仏の恩に報いることになるのだと解されます。
まさに、一人ひとりの弥陀法の歓喜によって、この法門は無限に弘まることになるのです。