『人、世間愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る』(仏説無量寿経)
「人間は、欲望に満ちたこの世に、ひとりで生まれ、ひとりで死に、ひとりで去り、ひとりで来る。」
これは、仏説無量寿経の中にある、お釈迦さまのお言葉です。
私たち人間がつくりだす世界は色欲、金銭欲、名誉欲など様々な欲望にあふれた世界でもあります。
その欲望を支えているのは愚痴(ぐち)というものであり、愚痴とは自分本位のものの見方という意味があります。
この私は自分本位のものの見方しかできないがゆえに、自分に都合の良いものを、他を押しのけてでも際限なく欲しがり、逆に都合の悪いものを嫌い、排除しようとしたり、差別したりする中で、お互いがいのちを傷つけ合い、私たち自身で多くの苦しみを生み出している現実が人間の世界でもあります。
そういう世界にあって、人はたったひとりで生まれ、たったひとりで死んで行かなくてはなりません。
この「独生独死、独去独来」というお言葉には、私たちの存在の絶対的な孤独、ということをお示しになられているように思います。
私たちはこの世に家族があり、仲間がいて、大勢でにぎやかに生きているように思っていますが、どんなに大勢の人に囲まれても人間は本質的にひとりぼっちなのかもしれません。
皆、たったひとりで生まれてきて、たったひとりで死んでいく。
人生とは大勢いる中でひとりぼっちになったわけでなく、もともとひとりぼっち同士がたまたま縁あって集まり、連帯しているにすぎないのでしょう。
だからこそ、お互いがそれぞれの立場や違いを越えて、共に認め合い尊敬し合うことの大切を教えてくださっているように思います。
私にとって都合のいい人も、悪い人も、すべて私も含めた関係性の中にあるという「縁起」という視点を私たちは大切にしなければならないと思います。
「あなたは誰かの大切な人」
大切な人とは、私の都合のいい人という意味ではありません。
私にとって都合の悪い苦手な人であっても、すべて関係性の中でお互いに連帯し合って成り立っているのが「いのち」のですから、その「縁起」なるいのちにおいては、すべてが大切ないのちであります。
自分ひとりで生きている、そのもの一つで成り立っているいのちなど何一つありません。
すべては関係性の中で、お互いに相支え、相支えられつつ生かされている、と言ういのちの見方を仏教では大切にしています。
この私の「いのち」は、空間的にも時間的にも思いも及ばない程の多くのものに支えられ、連帯し合って存在しています。
その「いのち」の真実に気づかされ、他者を尊敬し大切に思うとき、本当の意味で私も誰かの大切な人となるのではないでしょうか。