『あなたは誰かの大切な人』(中期)

私たちにとって「生きていることの喜び」は、一人、つまり孤独の中からは決して出てはきません。

「生きていることの喜び」には、必ずそこに「共に喜ぶ」ということがあるはずです。

源信僧都は、地獄について「われいま帰るところなし。

孤独にして無同伴なり」と述べておられます。

地獄は苦しみのみの世界であるといわれますが、帰るところもなく、共に歩く人もいない、そのような在り方が苦悩のいちばん深い姿だといわれるのです。

帰るところというのはどのような場所かというと、同伴者のいるところです。

私の帰りを待ってくれている人のいるところ、それが私の「帰れるところ」です。

源信僧都の生きられた平安時代と異なり、現代は一人暮らしをしている人も多くいますが、たとえ形の上では孤独な環境の中で暮らしていたとしても、そこに信じられる社会があり、信じられる人との繋がりがあれば、少なくとも「無同伴」ではありません。

社会を信じることができず、心を開いて語り合える人もいない、そのような在り方を「無同伴」というのだと思います。

「豊かな社会というものは、死ぬ時に豊かな心で死ねる社会だ」と言われた方があります。

一般に、私たちは豊かな社会という言葉を聞くと、財産や個人所得が増えるという経済的な面で短絡的に理解してしまいがちですが、本当に豊かな社会というのは、死ぬ時に豊かな心で死ねる社会だといえます。

たとえ財産をどれほどためたとしても、死ぬ時に寂しい心で死ななければならないとしたら、貧しい心で死んでしまうということになるかもしれません。

そうであれば、その人にとって人生は決して「豊かな人生であった」とは感じられないはずです。

では「豊かな心で死ねる」というのはどのようなことかというと、それは「何かを信じられる心を持つ」ということです。

具体的には、家族が信じられたり、社会が信じられる。

そういう何かを信じられるということがなければ、やはり豊かな心という訳にはいかないのだと思います。

そうすると、「生きていることの喜び」は、決して孤独というところにはないと言えます。

孤独を破って信じられる人間関係や社会との関係が開かれなくては、私のいのちがどれほど長く続いたとしても、本当の喜びは得られないのです。

振り返ってみますと、私たちは自分の周りの人が信じられ、本当に語り合える人がいると、どんな悲しみにも耐えられますし、本当に心から喜ぶことが出来ます。

一方、どれほど嬉しいことがあったとしても、それを共に語り喜んでくれる人が一人もいなければ、かえって虚しいだけです。

また、どんなに他の人びとからうらやましがられるような喜ばしいことが起きても、その喜びを一緒にまるで自分のことのように喜んでくれる人がいなければ、孤独ということを感じて寂しさがつのるばかりです。

悲しみもまた、共に語り合える人がそばにいてくれるとき、初めてその悲しみに耐えることができるものです。

浄土真宗本願寺派保育連盟には、全国で1000近くの保育園・幼稚園・認定こども園が加盟していますが、加盟園の大半で子どもたちは音楽礼拝形式の仏参をしています。

その中の『奉賛文』の中に、「みほとけさま いつでもどこでもそばにいてくださって ありがとうございます」という文言があります。

「みほとけさま」というのは、南無阿弥陀仏のことですが、この仏さまが「いつでもどこでもそばにいてくださる」というのはどのようなことかというと、具体的には、私たちの迷いの目に阿弥陀仏は見えなくても「南無阿弥陀仏」と称える私のその念仏の声として躍動しておられるということです。

このことを親鸞聖人は『正信偈』の中で、「私は阿弥陀仏のすくいの中にあるにもかかわらず、煩悩によって眼をさえぎられて阿弥陀仏を見たてまつることはできませんが、阿弥陀仏は大いなる慈悲の心であきることなく常に智慧の光で私を照していてくださいます(意訳)」と讃えておられます。

したがって、たとえ「自分は孤独だ」と感じたとしても、決してそうではありません。

まだ気付いていないだけで、あなたの周囲にはきっとあなたのことを大切に思ってくれている人がいるはずです。

また、何よりも南無阿弥陀仏という仏さまは、私が願うに先立って私を願い、いつも寄り添っていてくださいます。

あなたが、誰かのことを大切に思っているように、あなたも誰かの大切な人なのです。

そして、そういうお互いを大切に思い、敬い合う人びとの集う社会に生きていることを実感できたなら、私たちはこの世の縁尽きるとき、必ず豊かな心でお浄土に往くことができるのだと思います。

あなたは、決して孤独な存在ではありません。

必ず誰かの大切な人なのです。

どんなときも、そのことを決して忘れないでいてください。