三月初旬(はじめ)の朝である。
京都六角堂の精舎(しょうじゃ)から、かがやかしい顔いろを持って、春かぜの吹く巷(ちまた)へ出てきた旅の沙門(しゃもん)がある。
「ああ」太陽を仰いで、いかにも自己の生命を抱(いだ)きしめるように、足を止め、やがて礼拝(らいはい)していた。
善信(親鸞)であった。
冬から春まで、旅のあいだを、着どおしに汚れている僧衣――うすい法衣(ころも)――旅づつみ――誰が知ろう、この人が、嫉(しっ)視(し)と羨望(せんぼう)の的(まと)になって世を騒がせた月輪(つきのわ)の九条殿の法師聟(むこ)であろうとは。
そして、まだ結婚して間のない新妻の玉日を、独り草庵の孤(こ)閨(けい)に残して、旅に出ている人であろうとは。
――で、巷(ちまた)の往来の者は、彼とすれちがっても、
(や、昔の範(はん)宴(えん)少納言が)とも、
(吉水の綽(しゃっ)空(くう)が行く)とも気のつく者はない。
善信もまた、わき見もしないで歩いてゆく。
さすがに、彼も、この京都の地を踏んでは、岡崎の家がなつかしいのであろう、新妻の笑(え)顔(がお)にも早く接したいのであろう、加茂川にそって、白河のほうへ行くのである。
しかし、この京都へ戻ってきて彼がすぐ訪れたのは、その草庵でも、新妻のそばでもなかった。
ゆうべ、おととい、先おととい。
――こう三日三晩を彼が送っている所は、六角堂の精舎(しょうじゃ)であった。
河内(かわち)の磯(し)長(なが)の里の叡(えい)福(ふく)寺(じ)にある聖徳太子の御(ご)廟(びょう)へ参ることと、この六角堂へ籠って、心ゆくまで、感謝と、礼(らい)念(ねん)をささげ、また、過去の追想からしずかに将来を考えてみたいということが、そもそも、こんどの旅の目的であったから――。
太子廟は、聖徳太子が、かつて自分の惨憺(さんたん)たる迷いと苦悩のある時代に、
――汝の命根まさに十余歳。
という夢中の告示(つげ)をうけた青春の遺跡であった。
あの時、あの転機がなかったならきょうの自分はないものであった。
どうして、今のこの輝かしい生命があろう。
また、京都の六角堂は、そこの精舎へ、叡山(えいざん)から百(もも)夜(よ)のあいだ、求(ぐ)道(どう)に燃え、死ぬか生きるかの悲壮なちかいを立てて通った床(ゆか)である。
ここにも、如(にょ)意(い)輪(りん)観(かん)世(ぜ)音(おん)の有(う)縁(えん)の恩が浅くない、さまざまな思い出が多い――
そうした半生の闇から彼は今ぬけ出した心地である。
聖(しょう)道門(どうもん)から易(い)行門(ぎょうもん)へ。
そして、恋は成って玉日との結婚へ。
「ああ」善信は、思わず胸がふくらむ。
――自分ほど今、祝福されている人間があるだろうか。
だが――ひとみを拭(ぬぐ)って、都の巷(ちまた)を見てゆくと、なんと、ここには皆、暗い顔や、迷いのある影や、屈託(くったく)の多い俯(うつ)向(む)き顔や、せかせかと物に追われているすがたや――およそ貧相な人間ばかりが多いことだろう。
物に富んでいても、心の貧しい――いわゆる貧相な人々のことである。
善信は、自分の幸福をかえりみて、
「そうだ、自分の満足だけに酔ってはいられない。――自分の幸福は、頒(わ)けなければならないものだ。そして、世間の人がみな自分のような幸福を感じた時に、初めて自分も真から幸福になったといえるのだ。それまでは、小さな自己満足でしかない。――そんな小我の満足をきょうまで求めてきたのではなかった」
白河を過ぎると、いつか、右手の丘に岡崎の松ばやしが見えていた。
善信は、久しぶりに帰る家と妻を見るまえに、自分の心をきびしく叱っていた。