『遇光心の闇の深さを知る』(前期)

光に遇う、遇光。

「遇う」とは、千載一遇という言葉にもあるとおり、滅多に訪れる機会のない、類い稀な出遇いということであり、遇うはずもない私が、様々な縁や条件の中で出遇わせていただく貴重な機会であると言えます。

人との出遇いも含め、よき師、よき友との出遇いももちろんそうですし、あるいは大病や大けがといった辛い経験を味わったり、また、大事な人を死に失うという悲しい出来事も時にはあったことでしょう。

そのような、生きるうえで大きく自分の心に影響を受けたこと、響いてきたもの。

今までの自分の価値観や考え方、物事の受け止め方が大きく変化したという経験は皆さんもおありかと思います。

人間は誰もが変わるきざしを持っています。

そのように自分自身の心の捉え方や生き方に大きく変化をもたらした出会いや出来事をまたとないご縁と受け止め、「遇う」と表現するのであります。

「光」に遇うとは、阿弥陀如来の智慧の光に遇うということ。

つまり阿弥陀如来の教えに出遇うということです。

仏教は、私自身を常に問題とします。

自分に何か問題があるとか、そのような否定的な見方ではなく、私自身の心を常に仏法に問う姿勢を基盤とする生き方です。

亡くなった方や他の誰かではなく、どこまでも私自身が仏法の対象者であります。

よく知られているように、私たちは欲や煩悩を抱えて生きています。

これは否定のできないことであり、欲望や煩悩があるゆえに生きていけるというのもまた事実です。

しかし忘れずに押さえておきたいことは、それを欲や煩悩として自覚できているかという気付きであります。

私たちは気をつけていないと、自分の都合や欲であるということを自覚せず、自分の常識や価値観に固執し、ものの見方が一方的に陥りやすい危うさがあります。

そのように欲を欲と気付かず、自己を拠り所とする生き方しかできない有様を仏教では「無明」と呼び、まさに闇の中で思い通りにならず右往左往する私の姿が知らされるのです。

学生時代の恩師が、浄土真宗での仏道ということについてこのように語っていたことを思いだします。

「欲や煩悩を滅することはできないけれども、煩悩を整えることはできる。」

私たちは、たとえ一つの欲求が満たされたとしても、それに慣れてしまえばまた更なる欲求が沸き起こり、そこに終わりはありません。

ただし、その欲や煩悩をそのままにしておくというのではなく、その都度、阿弥陀如来の光を仰ぎ、仏法を鏡とし、常にわが身をかえりみて、正しく物事を見ていく努力こそ、浄土真宗での仏道でありましょう。

その昔お釈迦様がお説法する時、その人の能力や相手の理解力に応じて法を説かれたことを「対機説法」と呼び、仏教では、縁に触れれば変わるきざしを持ち、変化する可能性のあるものを「機」といいます。

遇い難い阿弥陀如来の光(教え)に出遇い、その光に照らされ自分の姿が浮き彫りになり、人間本来の姿があらわになる時、欲を抱えて生きる己を知り、光の存在により闇の只中であったと気付くのでありましょう。

仏法に「これでよし」はないのだそうです。

それこそ自己満足なのでしょうが、そのような自分をこそ仏法に問いただし、常にわが身をかえりみる必要があるのかもしれませんね。