仏教では、迷いの根源を「無明」と言います。
文字の表面から見ると、「明かりが無い」ということですから、この言葉は「真っ暗で何も見えない、何も分からない」という状態を物語っているように思われるのですが、これをひらたく言うと「全て分かったつもりの心」ということになります。
つまり、仏教では「自分は何でも知っている、分かっている」というあり方が迷いの根源だというのです。
なぜなのでしょうか。
私たちは、日々生活をしていく中で、いろいろな物事を見て、考えて、判断した上で、何かを言い何かを行っています。
この場合、漠然とではあるもの、私たちは無意識の内に「自分の中には正しい私がいる」と信じています。
そこで、私が口にしていること、行っていることは、すべて「正しい私」の判断に基づく事柄ですから、いつも私の言動は周囲の人からは「正しい」という評価を受けるはずです。
けれども、いかがでしょうか。
日頃、自分が言っていることやしていることが、常に正しい評価ばかりを受けているかというと、必ずしもそうは言い得ないと思います。
それは、「私」の判断の拠り所が、それまで知識として蓄えてきたこと、経験し身につけてきたこと、それだけに過ぎないからです。
つまり、私は自分の知っていること以外は何も知らないのに、自分の知っていることが、あたかも世界の全てであるかのように錯覚し、しかもその間違いに気付いていないのです。
そのため、正しいと思って主張したことや実行したことが、「間違っている」という評価を受けることがあったりするのです。
どうして、私たちはそのような錯覚に陥ってしまうのでしょうか。
それは、私たちの眼が「借光眼」、まさに「光の力を借りてものを見る眼」だからです。
たとえば、今部屋の中に居るとします。
そこにある一切の明かりが消され、外からの光もすべて遮断されたとしたら、どうでしょうか。
そうなると、自分の眼の力だけでは何も見ることはできませんし、そのとき私にできることといえば、手さぐりをしながら外に出て行こうとすることだけです。
この時、私は周囲のものを見極めることもできなければ、手さぐりをしている自身の姿を見ることもできません。
このように、私たちは光の力を借りなければものを見ることができないことから、「借光眼」というのです。
ところが、その事実に気付かず、私たちは「世の中のことはすべてわかっている」と錯覚しているため、あらゆることに対して、常に「自分の思い」というものを重ね、自分に都合の良いように見ようとしてしまいます。
しかもその根底には、いつも「自分の思い通りになるはずだ」という考えがあるため、自分の思い通りにならないことが起きると、その事実を引き受けようとしないばかりか、うまくいかないのは「あの人のせい」「この人のせい」と、責任を他に押し付けてしてしまうことさえあったりします。
このように、自分にとって不都合な事実を引き受けようとせず、他に転嫁していくあり方を仏教では「愚痴」といいます。
私たちの迷いを物語る「無明」とは、「本当の智慧をもたないあり方」のことですが、智慧が光明で表されるのは、光が闇を破る働きを持つからにほかなりません。
このことを踏まえて親鸞聖人は、その主著『教行信証』の冒頭で「無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり(迷いの根源である無明の闇をその根本から断ち切り、私を光輝く悟りの世界に至らしめる力は、ただ阿弥陀仏の本願力のみである)」と述べておられます。
まさに、私たちの迷いは光によって破られていくのだといえます。
仏教では、仏さまの智慧の光明に照らされることを「遇光」と表現しています。
「あう」という字には、「会」「逢」「遭」「遇」などいろいろありますが、この中の「遇」という字は、思いを超えてはからずもという意味で、私が計画してあったのではなく、どこまでも偶然にあったということを表します。
しかし、偶然であったということは、実はすべてのものがそのためにはたらいていたということなのです。
なぜなら、私の力で遇うことができたのであれば、そこには遇うことの必然性がありますが、偶然遇ったということは、私のはからいを超えて遇うことができたということだからです。
思うに、はからいを超えたことが私の上に起こるということは、すべてがそのためにはたらいてくれなければ起こることはないのです。
したがって、「遇う」のはどこまでも偶然なのですが、遇うことによって私たちは、それが限りないお陰によって成り立っていた、限りない力が私の上に出遇いを開いてくださっていたということに目覚めていくと同時に、これまで「すべて分かっている」と錯覚していた自身の愚かさに気づくことができるのです。
人間の眼は光そのものを見ることはできませんが、光に照らされて我が身を省みることはできます。
不思議なご縁によって、仏法に耳を傾けることで、私たちは仏さまの智慧の光に照らされ、心の闇の深さ(自分の迷いの深さ)を知ると共に、既にして私を願い、私のためにはたらき続けていてくださる阿弥陀さまの慈悲の心に気づくことができるのだと言えます。