「光に遇う」ということ。
私たちの周囲には、いろいろな光があります。
まず「太陽の光」。
この光は大自然を育み、大きな恵みを与えてくれます。
次に「蛍光灯の光」。
この光は科学技術の賜物で、便利で豊かな生活を与えてくれます。
そして、最も尊く、大切なたらきでありながら、見失いがちな光が、阿弥陀如来さまの智慧の光明です。
「明来暗去(みょうらいあんこ)」という言葉があります。
その意味を伺いますと、闇は闇だけでも存在できますが、光は光だけでは存在できません。
光は、暗闇を破り明るくすることによってのみ、光のはたらきを示すことができるというのです。
そして、ここでいう「光」(明)とは、阿弥陀さまの智慧のはたらきを光明にたとえ、「暗」(闇)とは、我々衆生の煩悩深い存在を指しています。
「闇は光を知らざれど光は闇にいりたもふ
そのみ光のみ仏をナモアミダブと呼びまつる」(木村無相)
「光に遇う」ことで、私の迷妄性(闇)がいかに深いものであったかを知らされます。
迷妄性(闇)を仏教では「我執」「煩悩」といいます。
「光が射す」ということ
「光が射す」ことで、「影」が生じます。
「闇」は光とは無縁ですが、「影」は光に照らされることで生じます。
光が強ければ強いほど「影」がはっきりと浮き彫りになります。
光明に照らされれば照らされるほど、私の煩悩の深さがはっきりとわかってきます。
今まで気づかなった、本当の自分の姿に気づくのは、光に照らされたからです。
煩悩深いわが身を知るといっても、それは単なる「闇」ではありません。
「闇」には不安や恐れがつきまといますが、「影」には慚愧(ざんぎ)と感謝の思いでいっぱいであります。
「自体愛」は私の姿
私が、ご縁を頂いた方の一人に、田村博水先生(住職・布教使)がおられます。
博水先生は、平成3年8月21日、享年60でご往生されました。
以下は、ご子息(後継住職)が書かれた、父親(博水先生)の臨終説法の一端と、ご子息の法味を整理したものです。
<往生の10日前、父は病院で、私に『往生要集』(源信僧都著)に説かれている「三種の愛心」について話された。
「三種の愛心」とは、「自体愛・境界愛・当生愛」のこと。
人間が臨終という極限状態を迎える時に、それまで潜んでいた愛着心(執着心)が頭をもたげてくるという。
(ここでは「自体愛」についてのみ取り上げます)。
「自体愛とは、口では表せないほど自分がかわいいということ。
テレビドラマなどを見ていたら、我が子の死を前にして、できることなら代わってあげたいというシーンがある。
あれは出来ないから言うことだ。
もしも本当に代われるなら全ての人とはいわないが、ほとんどの人は言わなくなるだろう。
親が子どもに対して代わってあげたいと思うのは美しい世界だ。
でもお父さんは、お前にこの病気を代わってほしい。
お前を犠牲にしても生きていきたい。
それほどドロドロした心を自体愛というのだ」と。
私自身、気づいたこと…、それは、私は自分自身が一番かわいいとうことでした。
父の病気が進行していく姿を見て、早く元気になってほしいと願う裏に、「早く治ってくれないと、私が苦労するじゃないか」と思う心でした。
私が辛い、私が悲しい、私が困る、私、私、私…、中心は我執に溺れた私でした。
ここで留意したいのは、源信僧都は、「自体愛」を否定しているのではなく、「凡情を遮せず」の語が示すように、阿弥陀さまは、凡夫というのは愛着心(凡夫の情)の尽きない存在であることを見抜いた上で、そのまま受け入れ転じてくださるという、広大無辺のお慈悲の如来さま(親さま)であることを讃嘆されていることです。