『わたしのいのちに代理なし』(前期)

早いもので、今年もあと2ヵ月となりました。

今年の年始めに、「この一年をどう生きようか」と目標を立てた方も多いと思いますが、その目標通りの生き方、過ごし方ができたでしょうか。

少し省みる時期でもあります。

「生きる」とは「いのち」の問題です。

朝起きて、ご飯を食べて、テレビや新聞を見て、少々の運動をすれば、生きられるかもしれません。

しかし、自分自身の人生が毎日この繰り返しだけだと勿体ない感じがします。

ある本に、「いのちの五原則」というものがありました。

一つは、いのちは他人に代わってもらえないということ。

二つはいのちを配分できないということ。

三つは人生を繰り返すことができないということ。

四つはこの人生は避けて通ることはできないということ。

五つはいのちは期間を予測できないということです。

この五つを聞くと、とても当たり前のことで、今さら言われなくても分かってるという方もおられるでしょう。

しかし、この分類された一つ一つを自分の人生に照らしてみたときに、いのちの現実と大事さをあらためて考えさせられるのです。

数年前のことですが、20歳の若さで亡くなった青年のお葬式に出向きました。

朝、元気に仕事に出て行ったのに、高速道路で交通事故に遭い帰らぬ人となりました。

たくさんの友人が集まって大変悲しいお葬式でした。

出棺のとき、その青年のおばあさんが、

「なんで残り少ないわたしより、この子が先に往くんじゃろう。代われるものなら代わってやりたい」

とおっしゃいました。

若くても、年老いていようとも、わたしのいのちは他の人と絶対に代わってはもらえないのです。

二つには、いのちを配分できないということです。

時折、お年を召された方から、

「皆、長生きする時代となったけれど、わたしは80歳くらいで病気に苦しむことなく、ポックリあの世に往きたい」

などと、聞くことがあります。

ならばあとの残った人生を誰かに譲ることができればいいですが、決してそれはできません。

たとえバーゲンセールにしても買う人などいません。

なぜなら買っても自分のいのちに、人のいのちは継ぎ足せないからです。

自分のいのちも、他人のいのちも分けることなどできません。

三つには、人生を繰り返すことができないということです。

今年は終戦70周年ということで、テレビでは様々な特別番組が放映されていましたが、戦争で若くして亡くなった方々も多く取り上げられていました。

「生きたい」、「生きていたい」、「生き延びたい」という心の底からの叫びを奪い取った戦争を二度と起こしてはならない。

非戦の誓いを心に新たにされた方も多いことでしょう。

と同時に、亡くなった方々のその心の叫びは、

「あなたのいのちは二度とない人生ですよ」、

「二度と帰っては来ないいのちを今、生きているんですよ」

と厳しく問うているように聞こえました。

四つには、人生は避けて通れぬということです。

先ほどの戦争のテレビ番組には、実際に戦地より帰ってこられた方のお話もありました。

その方は、「生きて帰ってきて申し訳ない」と目頭を押さえて語っておられました。

あの戦地から「生きて帰ってこられてよかった」ではありません。

戦争が終わって70年も経過している今に至っても、多くの戦友を亡くし、自分だけ帰ってきたことへの罪悪感に苛まれながら、謝罪の日暮らしをされていました。

戦争という極めて特別な体験ではありますが、それのみならず年を取ること、老いていくこと、病を抱えることも含め、人の人生には、それぞれに背負っていかねばならない不可避性があることを知らされます。

最後に、いのちは期間を予測できないということです。

もし、「あなたの人生は、一年後の○月○日に終了します」という宣告を受けたならどうするでしょう。

わたしならそれまでのルーズで不真面目な生き方を深く反省し、少しは真面な生き方をすると思いきや、きっと狼狽し自暴自棄になってしまうことでしょう。

「上りざか」、「下りざか」、「まさか」と、人生には三つの坂があるとよくいわれますが、いのちのまさかは、この世に生を受けたものであれば、皆抱えなければなりません。

いのちの五原則をあらためて考えると、代わりのきかないわたしの人生をどう生きるのかという問いに迫られます。

と同時に、現実に生きている今こそ、今日一日こそ、かけがえのない大切なものだということを実感します。

そして、仏教の教えには、まさにその代わりのきかない人生を、かけがえのないいのちを、大切でこころ豊かな人生に仕上げてくださるはたらきがあります。

お金やものに恵まれる教えではありません。

聞いてすぐに助かる教えではないかもしれません。

しかし、その教えを聞き重ねていくうちに、代われず、分けられず、繰り返せず、避けられず、そしてまさかありの苦難多き人生が、目には見えない仏さまの智慧と慈悲のはたらきに包まれて、なにひとつ無駄に終わることのない意義あるものとなるのです。