2022年11月法話 『仕合せは比べるものではなく気づいていくもの』(後期)

先日、近所で開かれていたお祭りに子どもと行ってきました。

地元青年会の皆様が中心となり企画されていたのですが、子ども向けの体験コーナーで「お地蔵様磨き」というものがありました。

何をするのかというと、お地蔵様を手ぬぐいで拭いて綺麗にするのですが、最後にスタッフが「手を合わせてお願いごとをしてね」と言っていました。

見ていると、多くの子どもたちが手を合わせてお願い事をしていました。

「○○のオモチャが欲しい」
「テストの点数がよくなりますように」等々

私たちの願い事には、様々なものがあります。

それは、自分のしあわせについて願うということもあれば、自分以外の何かを願うということもあったりします。

「しあわせ」という言葉を辞書で調べると、「幸せ」と「仕合せ」とが出てきます。私たち現代人は「幸せ」を使うことが多いと思いますし、なんとなくその意味も理解することができます。

では、もう一つの「仕合せ」には、どのような意味があるのでしょうか。

「仕合せ」を広辞苑で調べると、以下の事柄が記載されています。

① めぐりあわせ。機会。天運。
② なりゆき。始末。
③ 「幸せ」とも書く。幸福

なぜ「仕合せ」と表記するのかというと、「相手に仕える」「お互いが相手のために仕え合う」ということが語源だからです。それは、仕合わせとは、自分にとって損か得か、好きか嫌いかなど、自分さえ良ければいいという自己中心的な考え方によるものではないということです。

つまり、相手や自分以外の人ために心を配り、喜んでもらい、安心してもらうことが「仕合せ(幸せ)」だと、先人たちは考えていたのです。

時に私たちは、自分自身のために行う時よりも、他人のために何かを行う時にこそ、持てる力以上のものを発揮できると感じたりすることはないでしょうか。

それは、我が子を守る親心であったり、家族同士が支え合う気持ちであったり、また恋人を想う優しさもそうであったりするのではないでしょうか。

その心や気持ちが、本当の仕合せ(幸せ)だと思います。

他人と比べて一喜一憂したり、欲しいものが手に入ったりしたからといって欲望が満たされる訳ではありません。

「そんなことは解っている」と言われるかもしれませんが、わかっていても止められないのが人間という存在です。

そのことを見抜かれ、救わずにはおれないと働き、願いをかけてくださるのが阿弥陀如来という仏さまです。

浄土真宗の教えで大事なことは、私から仏さまへお願いをすることではなく、既に仏さまが私を願っておられることに気づいていくということです。それはどのような願いかというと、「必ず仏とならせるから心配せずに、あなたの命を生きてください」ということです。

この命は、阿弥陀如来という仏さまの願いのはたらきによって、間違いなく仏さまとなっていく命であったとお聞かせいただくのです。

共々に仕合わせな日暮らしを過ごさせていただくことが、私(自身)や、私に関わる全ての人を仕合わせにしてくれるはずです。そして、その仕合わせは、他の誰かと比べたりするものではなく、み教えを聴くことを通して気づかされていくものだといえます。

合掌
南無阿弥陀仏