浄土真宗本願寺派の教義は、『阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化する。』というものです。
この教義を感じさせていただくような出来事がありました。
それは、あるおばあちゃんのお通夜でのことでした。最近は葬儀場でおつとめさせて頂くことがほとんどですが、この時はご自宅でのお通夜でした。通夜経のおつとめが終わると、次のような会話が聞こえてまいりました。
「〇〇ちゃん、おばあちゃんが亡くなって寂しいね。大丈夫?」
「うん、寂しいよ。だけど、おばあちゃんは元気な頃に、死んだら、おばあちゃんは“ののさま”になって、〇〇ちゃんのそばにいるからね。いつも一緒だからねって、いつも言っていたよ。だから、今は寂しいけど、大丈夫だよ。」
近くで、聞きながら心があたためられたことでした。
娑婆の命を終えても、そこで終わりではない。阿弥陀如来の“必ず救う、我にまかせよ”のはたらきにより、おばあちゃんは浄土に生まれ仏さまのはたらきをしていかれる。そして、これからも〇〇ちゃんと一緒にいてくださる。
命の終わりの受け止め方が、〇〇ちゃんにとっては、おばあちゃんとの新たなであいの始まりとなるのだろうと感じたことでした。
「終わり方が始まり方を決める」
お別れしても終わりではなく、これからも続いていく関係であることを〇〇ちゃんに生前に伝えていたおばあちゃんと、それを身をもって受け止めた〇〇ちゃんから、大切なことを教えていただいたことでした。