2022年12月法話 『終わり方が始まり方を決める』(中期)

仏教では、この世に存在するものはすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬として同一性を保つことはできないと説き、それを「諸行無常」という言葉で表現しています。「諸行」とは、物事が生じる直接の力である因と、それを助ける間接の条件である縁、この二つの働きである「因縁」によって起こるこの世の中の現象をさし、「無常」とは一切は常に変化し、不変のものはないという意味です。

つまり、生まれたものは必ず死に帰し、栄えているものも、いつか必ず滅びるときがくるのです。とはいえ、これは自然の道理であって、仏教者に限らず、誰も等しくうなずくことのできる道理だといえます。なぜなら、始めがあれば必ず終わりがあるからです。

ただし、単に「始めがあれば、いつかは終わるときがくる」というような漠然としたことを言っているのではなく、「その終わりが、今まさにここにあるのだ」ということを教えているのが、仏教の無常の理です。ことのことをふまえて、本願寺第八世・蓮如上人は、「白骨章」とよばれる有名なお手紙を御門徒の方々に対して書いておられます。その中で、上人は

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一 期なり。されば、いまだ万歳の人身を受けたりということをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりて誰か百年の形体をたもつべきや。

と、述べておられます。

これを少し補足して意訳すると「さて、人間の定まりのない有り様をよくよく考えてみますと、およそ何が儚いかといえば、この世において生まれてから死ぬまでの間の幻のような生涯ほど儚いものはありません。それゆえに、未だかつて一万歳の命を授かった人がいたなどということを聞いたことはありませんし、人の一生とはまことに過ぎ去りやすいものです。また、今まで誰が百年の間、その肉体を若々しいまま保つことができたでしょうか」ということになります。蓮如上人は、続いて「私たち人間の命は、露のしずくのはかなさと同じように、今日とも明日とも知り得ないもので、たとえ朝は元気にしていたとしても、無常の風が吹けば、夕べには白骨となる身である」と、教えておられます。

では、私たちは自らの人生をどのように生きればよいのでしょうか。蓮如上人は、今生きているこの現在を含め、私の人生の始まりから今日まで、そしてこれから終わる時まで、そのすべてが「まぼろし」のようなものだといわれます。「まぼろし」とは、実際はないのに、あるように見えるもののこと。あるいは、まもなく消えるはかないもののたとえのことです。私たちは、年を重ねていろいろなことが思うようにできなくなると、ピーク時の自分が本当の自分であり、衰えた自分は本当の自分ではないと思ったりします。

けれども、一切は常に変化するのですから、ピーク時の自分も衰えた自分も、共に本当の自分だといえなくもないですが、実は、私の実体などはどこにも存在せず、やがて縁が尽きると、私と思い込んでいた存在は儚く消え去ってしまいます。このことを上人は「まぼろしのごとく」と述べられるのです。

だからといって蓮如上人は、私たちは将来のことなど考えず、現在の瞬間だけを充実させればよいとか、楽しいと思うことを今のうちにするべきだと勧めておられるのではありません。むしろその反対で、だからこそ、人は今の生に、真の生きがいを見いださなければならないのだと教えておられるのだといえます。

では、なぜ私たちは刹那主義的に、勝手気ままに楽しく生きる人生を求めてはならないのでしょうか。それは、私たちは人間という言葉が物語っているように、人と人との間を生きる存在で、自分一人だけでは生きることができない存在だからです。

私たちの生きる社会は、私を中心に回っているのではありません。多くの人々と共に生活していく上では、自分勝手な振る舞いは他に迷惑をかけます。若いときには特に意識しなくても、老いて病んで身体が衰弱し、食事や排泄もままならず、しかも孤独な生活の中にあっては、人生の喜びを味わい楽しむことはできません。しかもひとたび無常の風がふけば、そこで私たちは白骨の身となってしまいます。ここに人生の終焉があるのですが、では、生きる大切さとはいったい何なのでしょうか。

私たちは、人としての命を授かった以上、いつかその命を必ず終える時がきます。ところが、未来は不確かで、命が終わることを除いて、何一つ確かなことなどありません。また、どれほど理想の人生を描いて、それに向かって歩みを進めたとしても、その理想が確かにかなう保証など誰もしてくれませんし、むしろ理想の実現はないに等しいとさえいえます。

そうだとすれば、常に今この生きているこの一瞬一瞬の歩みが極めて重要になります。そして、その日々の歩みが、既に理想の完成と重なっている必要があります。端的には、この現在において、そのことを実現するような教えと出会うことが、私たちの人生においては求められているのだということになります。

では、そのような教えが、はたしてあるのでしょうか。『仏説無量寿経』には、お釈迦さまによって、阿弥陀仏の浄土のすばらしさが語られ、無限に輝く阿弥陀仏の大悲心が説かれています。阿弥陀仏の大悲心とは、煩悩の中で思いのままに生きることができず、いたずらに愚かな行為を積み重ね、苦悩にあえいでいる凡夫こそ、救おうされるはたらきです。そのことを成就するため、阿弥陀仏は迷いのただ中にいる凡愚に対して、次のような救いの道を示されます。

「迷いから逃れ、悟りに至りたいのであれば、我が浄土に生まれたいと願いなさい。我が浄土に生まれれば必ず仏の悟りに至ることができます。もし浄土に生まれたいと願うのであれば、我が大悲心を信じて、真実清浄なる心で浄土に生まれたいと欲し、その心を相続して我が名を称えなさい。必ず仏の悟りへの道は開かれます」と。

この阿弥陀仏の凡愚を救おうとの願を受けて、お釈迦さまは私たちに、阿弥陀仏の願いの真意を
「阿弥陀仏の救いの功徳の一切は、この南無阿弥陀仏の名号の中におさめられている。衆生は、ただその名号を聞くだけで、自分は阿弥陀仏の大悲に包まれていると信じればよい。心から浄土に生まれたいという願いを起こしたその瞬間に、浄土への道は決定します」と、説かれます。

このような意味で、「終わり方が始まり方を決める」というのは、精一杯生きたつもりでいたのに、まぼろしのような生涯だったという空しさの中にすべてが砕け散っていくような人生ではなく、常に今のこの歩みが、人生最高の形で結実することへと繋がるような生き方を見いだすということだと思われます。それは、人生の全体が決して空しく過ぎ去ることなく、その終わりが成仏という形で成就していく。そのことに確かにうなずくことができたとき、常に新たな私の人生のどの一歩の歩みも、すべて空しく終わることのない終わり方につながっていくのだということを物語っているのだといえます。