2022年12月法話 『終わり方が始まり方を決める』(後期)

「どの木も紅葉するところとなった 終わりを美しくする
み仏の教えを 彼等が一番 知っているような気がする」 (坂村真民)

 

早いもので師走を迎え、木々も紅葉から落葉の時を迎えています。紅葉の美しさは、私達に「いのち」の深さをさりげなく伝えてくれます。そして「いのち」のあり様として見ますと、また味わい深いものがあります。「終わりを美しくする」。その様子は、心優しき人々にめでられ、実を結ぶはたらきをしていた木々の葉が、散る前にその「いのち」を燃え尽す姿とも見えます。舞い散る色あせた枯葉の一葉一葉に、「いのち」の歩みをふと感じるのは、ただの感傷ではないようです。「落葉」というと凋落、盛者必衰といった言葉がつきものですが、風に舞う落ち葉に「死」の姿ではなくて、「生」の姿を見ることができます。落葉樹は、冬を迎える前に、葉柄の付け根の部分に「離層」という特別の組織をつくります。葉はまだ枯れていないのに、木と別れをつげ大地に落ちて、土になり木々の栄養となっていきます。「葉落とし」は、冬を生き抜くための知恵であり、「生きる」ための営みでもあるのです。

 

また、日本の慣用句には、「晩節を汚す」「優秀の美を飾る」「終わりよければ全てよし」など、人の一生のみならず、何事につけ最後を大切にする慣習があります。そこには「終わり方」を大切にすることが、その先の有り様に繋がって欲しいという願望があります。その思いが「終わり方が 始まり方を決める」という句に含まれているようです。そういえば、「終着駅は始発駅」という演歌もありましたが、「新たな始まり」は、「終わり方」を見つめる中に感じ取ることができるのではないでしょうか。

しかしながら、現代はややもすれば、「死んだらオシマイ」という句からも伺えるような、短絡的な人生観が広がりつつあることが気になります。そのことは「死んで花実が咲くものか」「生きているうちが花」との句からも伺えます。そこには、「個体」としての私、「自我」に縛られた私の姿があると共に、「いちの繋がり」の視点はなく、分断化された「いのち」しか見えてきません。そこには、人生の終わりには、落胆するだけの空しい死(空過)が待っているのみです。そんな枯渇した「いのち」に、潤いと温かさを与えてくださるのが、私の迷妄を破って下さる真実の教えではないでしょうか。

そうした中、シンガーソングライターの竹内まりやさんが歌われた「いのちの歌」が響いてきます。

 

生きてゆくことの意味 問いかけるそのたびに
胸をよぎる愛しい 人々のあたたかさ
この星の片隅で めぐりあえた奇跡は
どんな宝石よりも 大切な宝物
泣きたい日もある 絶望に嘆く日も
そんな時そばにいて 寄り添うあなたの影
二人で歌えば 懐かしくよみがえる
ふるさとの夕焼けの やさしいあのぬくもり
本当に大事なものは 隠れて見えない
ささやかすぎる日々の中に かけがえない喜びがある
いつかは誰でも この星にさよならをする時が来るけれど
命は継がれてゆく
生まれてきたこと 育ててもらえたこと
出会ったこと 笑ったこと
そのすべてにありがとう
この命にありがとう

 

今の私には、「いのち」の連鎖の中で途絶えることなく繋がれてきた歴史があり、そして、今、不思議なご縁で出会い、育てられた、ささやかな人生。そこには「いのち」をいとおしむ世界があります。