2022年11月法話 『仕合せは比べるものではなく気づいていくもの』(中期)

私たちは生きていく中で、誰もが「人間に生まれた以上しあわせになりたい」と思っています。そして、それは何も今に始まったことではありません。たとえば、古代ギリシャの哲学者のアリストテレスは、「人間は誰に教えられたわけでもないのに、誰もがみんなしあわせになりたいと思って生きている」と述べていますし、さらにさかのぼると、おそらく人間はその誕生以来、よりよい生活、つまり「幸福」を願い、それを実現するための手立てを考え実行し続けてきたのだと考えられます。そして、それを自分の世代で実現できなかった時は、次の世代へ、さらにまた次の世代へとバトンを渡すようにして願いを託し続けてきました。その営みの繰り返しが、まさに私たち人間の歴史と重なっているように思われます。その結果、人間の持つ多くの願望を進歩・発展させて結実したのが、いま私たちが生きている現代社会なのだと言えます。

ところで、「しあわせ」という言葉は、一般には「幸せ」と表記されますが、今月のカレンダーのように「仕合わせ」と表記されることもあります。これには、いったいどのような違いがあるのでしょうか。辞書を繙いてみますと、「幸せ」とは、「満ち足りていて不満がなく、望ましい状態のこと」で、「恵まれた状態にあって不平不満を感じない」「満足できて楽しいありさま」だと説明してあり、「仕合わせ」の方は、「偶然性を重視するときに好んで用いられる」と述べられています。そうすると、今月の言葉『仕合せは比べるものではなく気づいていくもの』は、日常的な場面での事柄を意味し、さほど偶然性を重視しているようには感じられないので、「仕合わせ」ではなく、一般に使われている「幸せ」でも良かったのではないかと思われます。

それはともかく、改めて「しあわせ」という言葉の意味を尋ねていくと、語源は「し合わす」だとされています。「し」は動詞「する」の連用形で、何か2つの動作などが「合う」ことを「しあわせ」と表現していたようです。今これを別の言葉で理解しようとすると、「めぐり合わせ」が語感としては近いように思われます。このように、自分が置かれている状況に、たまたま別の状況が重なって生じることが「しあわせ」の意味になります。そのため、昔は「しあわせ」はいい意味にも悪い意味にも用いられ、さらに偶然めぐり合ったよいことも悪いことも、ともに「しあわせ」と考えられていたようです。

ところが、現代を生きる私たちは、語源には特に注意をはらうこともなく、無意識に「しあわせ」という言葉を使っています。なお、「仕合わせ」と書く場合、「仕」は当て字ですが、「合わせ」の方に「しあわせ」が本来持っていた偶然性の名残を見ることができることから、たまたま訪れてきてくれたハッピーな状況のことを表したいときには、「仕合わせ」と書くのが好まれているというわけです。

ところで、私たちはなぜ「幸せ」を求めるのでしょうか。それは、おそらく「今の自分は幸せではない」と不満に思ったり、あるいは「こうなったら幸せなのに…」という願望があったりするからではないでしょうか。辞書には「幸せとは満ち足りていて不満がなく、望ましい状態のこと」と説明してあるので、それによれば「今の自分は望ましくない状態にあり、そのため心は満ち足りないことを不満に感じている」ということになります。

もちろん、そのような思いの積み重ねが、私たち人類の進歩と発展に大きく寄与してきたことは紛れもない事実です。けれども、その一方で、限りあるいのちを生きる人生にあって、幸せを獲得するために生涯を尽くすということは、見方を変えれば、常に「自分は幸せではない」という思いの中にあって、幸せを得ようと追われるような在り方に終始していることになります。そして、おそらく私たちは生きている限り、その営みをやめることはできないような気がします。今そのような私の姿を客観的に見ると、「現在に生きている私が未来というものに幸せを夢見、逆に未来に夢見た幸せな自分の姿から現在の幸せではない自身というものを悲しんでいる」といった姿が見えてくるのではないでしょうか。

本来、幸せとは現在において実感できるものでなければ意味はないのですが、私たちが未来に幸せを求めるということの根底には、現状においては幸せを未来に求めなくてはならないような不平不満の状態にあるということがあるからだと言えます。一般に「隣の花は赤い」とか「隣の芝生は青い」と言われるように、私たちは他人のものは自分のものよりもよく見えるものです。つまり、私たちはいつでも他と比べてしか自分の幸せを考えることができないというありかたに終始しているのです。

したがって、私たちは常に自分の幸せを求めて生きているのですが、事実においては幸せとはいつでも他人の上にあるということになります。しかも、幸せは現在における自分の上にはなく、その大半はいつも未来にあって夢見られるものになっていたりします。

けれども、いつもそれでは何ともやりきれないので、今度は別の方向に目を向けて、自分より不幸に思える人と自分との境遇とを見比べて、「まあ、自分は幸せな方ではないか」と、自らを納得させることで不平不満の解消に努めたりもしています。それは、状態は何も変わらないのに、自分より幸せな人を見ては「自身を不幸だ」と歎き、自分より不幸な人を見ては「自身は幸せな方だ」と誤魔化している在り方にほかなりません。そして、常に他人との比較の中で、不幸と幸せとの間を行ったり来たりしているということになります。

これは、良く言えば生きる上での知恵であり、悪く言えば現状への妥協ということになります。言うなれば「まぁまぁと自分を抑える処世術」ということになりますが、やはり本当の幸せを得られない限り、私の一生は無駄に終わってしまうのではないでしょうか。

親鸞聖人の文章の中に、しばしば「空過」という言葉が出てきます。「空過」というのは「空しく過ぎる」ということですが、親鸞聖人が何よりも問題視されたのは、生涯において縁にふれ折りにふれ突如として襲いかかって来る大切な人との死別の悲しみでもなければ、悲惨な出来事との遭遇でもなく、本当の幸せを得ない限り、善きにつけ悪しきにつけ、自身が出遇う一つ一つの事実の全てが空しいものに終わってしまうということでした。

したがって、たとえ苦しくても悲しくても、その苦しみや悲しみが本当の意味で空しいものとはならない。悲しみの中にも人生の意味が見出され、苦しみの中にも無駄でなかったというものが感じられない限り、人間の一生というものは、どれほど生きたとしても、真の意味で「生きた」とは言えないのではないか。これが、親鸞聖人が問い続けていかれたことだと思われます。

人間は、幸せを追い求めて生きているのですが、現実に安んじるという道を見出せなければ、やはり私たちは「空過」なるままに人生を終えることになってしまわざるを得ません。したがって、真の意味で私が自らの人生を「確かに生きた」と実感するためには、「私、誰の人生もうらやましくないよ」という生き方を見出す以外に道はないではないでしょうか。

私たちは人間として生きる限り、どのような生き方をしていても縁にふれ折りにふれ、辛いことや悲しいことに出遭います。けれども、他人の目から見ると、たとえそれが苦難の多い大変な人生であったり不幸な人生に見えたとしても、「あなたには大変だったり、不幸に見えたりする人生であっても、この人生を生きて行くのは、言い換えると生きて行けるのは私しかいないのです」と、胸を張って答えられるような在り方が出来れば、私は私として生きて行くことに安んじることが出来ます。そして、そのことを明らかにしてくれるのが、まさにお念仏の教えなのだと言えます。