2022年11月法話 『仕合せは比べるものではなく気づいていくもの』(前期)

大切なことは「後」になって気づくことが多いのかもしれません。

私事になりますが、僧侶という資格を得て約30年になります。一言で30年と言っても、もう30年であり、あっという間の30年でした。

たくさんの記憶は時の経過とともに薄らいでいくのでしょうが、反対につい昨日のことのように思い出すこともあります。特に、「同じ釜の飯」を食べた同期の仲間と再会すると、一瞬で当時にタイムスリップします。また、とても不思議な思いがするのですが、「今の自分」から見た「過去の自分」は、初々しくも頼りない自分にはちがいないのですが、その反面、「過去の自分」から「今の自分」に対して、少しは成長しましたか?と問われているような気もします。すなわち、僧侶という「資格」歴は30年ですね、では僧侶としての「自覚」は深まりましたか?と。

最近になって、つとに思い出されるのは、出来のわるい、やる気のでない「過去の私」を、手を変え品を変え、あきらめずにご教示いただいた当時の先生の言葉です。「あんたち、しっかりせんといけんよ。僧衣を身に着けて、門徒さんの前に座るのですよ。頼みましたよ」と。時間軸としては「過去の言葉」ですが、今もって響いている現在進行形の言葉です。ですから、「現在の言葉」でもあります。

そして、その時分に身についたことが土台となって、何とか今の僧侶としての役割を果たすことができている、という「自覚」だけは深まった感じがしています。また、今現在、「日々に精一杯つとめます」と宣べたいと思えるのは、私より「先」にあった先生の言葉のおかげと頂きたいのです。

私たちは、いつも他人と比べて、優劣や正誤、正邪や損得を勘定しています。それは自分にとって、他人よりプラスかマイナスかが基準なっているありようにほかなりません。

阿弥陀さまのご本願は、私よりずっとずっと先に、私が気づくはるか以前から、私のことを思っておられるお慈悲の心であります。いま現在だけではなく、これまでの私も、これからの私も「常に照らされ続けている」。しかも、私だけでなく、私たちすべての人・存在に開かれ向けられている、その「はたらき」に気づかされる時、比べる必要がない自他のあり方に安堵・安心できるのではないでしょうか。

他人と比べて競って得られる仕合せではなく、比べることが必要でなくなった仕合わせ。

しかしながら、もし、どうしても比べてみたくなったら、自分の中にある「過去の私」や想像上の「未来の私」と、「現在の私」とを比べてみてもいいのかもしれません。そうした比較であるならば、「しっかりせんといけんよ」という先生の言葉から、時間差でお育ていただいている「自覚」がありますので、私には無理がないように感じます。

そうした「気づき」を、今の私の暫定的な「仕合わせ」(めぐり合わせ中の自覚)の定義としたいのですが、いかがでしょうか?