2022年10月法話 『相手の目線でみると違った世界がみえてくる』(後期)

幼稚園では年に一度、

親鸞聖人の報恩講法要に合わせて

給食で「おとき(肉魚などを使用しない精進料理です)」をいただきます。

ダイコンやゴボウ、ニンジンなど

子どもたちがあまり得意でないお野菜が並び

子どもたちが大好きなお肉などは入っていません。

 

この給食の日を迎えるまでの間に

特に年長組さんには、本堂や保育室でのお参りの時に

「食べることは命をいただいている」ということや

親鸞さまが教えてくださったことなどを話しています。

ですから、あまり得意でないお野菜も

残さないように頑張って食べます。

そして、頑張って食べたことを報告に来てくれたりします。

「命をいただいているから、ありがとうと言って食べたよ」

と、大人も頭が下がるようなことも報告してくれます。

 

そんなある年の報恩講の「おとき」給食の時

いつものように、報告に来てくれた子たちの中に

ひとり「園長先生、お魚さんや、豚さんや牛さんは偉いよね」

と言った男の子がいました。

恥ずかしながら、私ははじめピンときませんでした。

「偉いってどういうことなんだろう」と。

なので、その子に正直に聞いてみました。

「どうして偉いと思うの?」と。

するとその子は、こう言い始めました。

「園長先生、僕は泣き虫だから、けがをすると痛くてすぐに泣くんだ・・」

その子は決して泣き虫ではないのですが、

君は泣き虫じゃないよ、と話を遮らずに先を聞きました。

「だから、僕はおともだちのために怪我するのはいやなんだ・・」

それはそうだよなあと思いつつ先を聞いていると

「でもね、園長先生は、食べものはみんな命をくれたって教えてくれたでしょう・・」

そうそう、そういう話をしているよと思いつつ聞いていると

「お魚さんや、豚さんや牛さんは僕に命をくれたんだよね・・」

今日はお野菜だったけど、いつも食べているお魚さんや、豚さんや牛さんを思ってくれたんですね

「きっと痛かっただろうなって思うの。」

「僕なんか怪我しただけで痛くて泣くのに・・」

ここまで聞いていて、私は体が震えていることに気が付きました。

彼が何を言おうとしているのかが分かったからです。

そしてつい先に口を出して彼に聞いてしまっていました。

「自分にはできないのに、お魚さんや、豚さんや牛さんは痛い思いをして命をくれた」

「だから偉いって思うんだ」

優しいまなざしの彼は「うん」とうなづきました。

私は涙があふれていました。

なんて優しいんだろう、なんてすごい感性なんだろう、

こんな子に「命をいただいているから感謝しなさい」

と偉そうに言っている自分が恥ずかしくてたまりませんでした。

 

年長組さんくらいになると「死」ということが朧気ながらわかってきます。

死んだらもう元には戻らない、時間は逆戻りしないということも。

この子は「死」ということが分かっていたのです。

そしてもう一つ、自分と立場が違う存在の側に立って考えることもできていたのですね。

 

命をいただくからありがとうと言いましょう。

ということもとても大切ですが、これはあくまでも食べる側の視点です。

彼は「食べられる側」の痛さや悲しさにも立てていたのです。

そしてそのうえで、自分にはできないことができるから

お魚さんや、豚さんや牛さんは偉いと思えたのですね。

命を見る目に上下がない、とてもあたたかいまなざしだと思いませんか。

 

いつしか私たちは「お魚さんや、豚さんや牛さん」といわずに

「魚・豚・牛」というようになります。

それを成長とも言いますが、

同じ視点で命を見つめることを失っていくことでもあると思います。

「お魚さんや、豚さんや牛さんは偉いよね」

と伝えてくれた彼に見えていた世界は

未成熟な幼稚な子どもの世界ではなく

どの命も尊く輝いている

まさに仏様のまなざしの世界だったんじゃないかと思えてなりません。