晴れた日は、西仏と生信房が、梯子(はしご)を架けて屋根へのぼり、何年も手入れをしたことなく腐ってる茅屋根へ、新しい茅を葺きたして、屋根を修繕した。
また、大工道具を持って本堂の破損している所や、野盗に踏み荒らされている内陣を繕って、とにかく住めるだけの屋根の下と、御仏を置く壇だけを作った。
「野に働く百姓衆――」
親鸞は、そこから呼びかけた。
「あなた方は、太陽のもとに食し、汗の中に働いている。体はよく肥え、力は逞しい。
――けれどかなしいかな、あなた方の生きている内面をうかがうと、あなた方もまた、人間である。人間と人間とが一つ棟に住み、村に営み、一つの社会というものを作って、その中に生活していると、必然に起ってくるのは、邪智、嫉視、反感、陥穽、迷い、悶え、あらゆる人間の持つ――生きとし生けるものの宿命的な悩みというものがやはり何家(どこ)の中(うち)にもあるだろう。
――富める者は富めるがゆえに、貧しき者は貧しきがゆえに、心の悩みは形こそちがえ、誰の胸にも巣をつくるものだ。
――心に病のない者でも、肉体に病魔があるとか、骨肉のうちに生活力のない者があるとか、また、嫁と舅の仲、親と子の仲、あによめと兄弟の仲、近所隣り同士の争い、およそ人間とはそうした煩いばかりに罹(かか)って喘ぎ悩むのが持ち前なのである。
――それがために、あなた方は、よく働き、よく肥えて、いかにも逞しくは見えるが、心のうちというものは皆さびしくて暗い。
衣食に貧しい上に、心までが貧乏人である。
――心の富むすべを――心はいつも幸福で無碍自由にこの世を楽しむことができるのが常であるのを――それを知らないあなた方は、それを宿命のように、鈍々と、牛か馬のようにただ喰って働いている。
まことにあわれな生活といわなければならない。
食物は鳥獣でさえ天禄というものがあるのに、万物の霊長といわれる人間が、ただ喰うためにのみ働いて、この世を楽しむすべも知らないというのは、情けないことではないか。
楽しまずして何の人生ぞや――である。
ではこの毎日を、どうしたら楽しんで、この大地と生命に、生きる感謝を持って生きることができるかというならば、お互いのこの世間をまず浄土にしなければならない。
この世間を浄土にするには、まずその前に人間であるおのおのが、心の病巣を取り除かなければその実現はむずかしい。
われのみひとり幸福になろうとしても幸福にはなれない。
そこに気づいた衆は、妻をも誘い、舅もさそい、隣の衆も誘い合って、昼間の野良仕事が終ったら、ほんの半刻(はんとき)の暇をさいて、この親鸞の寺へござれ、親鸞はいかなる重い苦患(くげん)になやむお方とも、御仏に代って、心の友となろうほどに――」
噛んでふくめるように、平易なことばをもって、親鸞は説く。
彼の声は、野の人々へひびいて行った。
だが、文化もおくれているし、精神的にも、かさかさしているここの民衆の耳には、彼のそうした声もうるさいことにしかひびかなかったとみえ、
「おいおい、このごろ、下妻の三月寺に、変な坊主が来て、寝言みたいなことを云い出したが、聞いたか」
「聞くほどもねえわさ、一文のも金になるわけじゃなし、念仏さえ唱えていれば、倖せになるっていうなら、歌を唄っても、長者になれそうなもんじゃないか」
「そうとも、欠伸(あくび)をしていても、如来様になれるわけだ」
「念仏いうひまに、縄でもなえば、寝酒の銭ぐらいは溜る。そのほうが、ご利益(りやく)があらたかだて」
野の反響は、そんなふうであった。