親鸞は、根気がよかった。
偉大な彼の根気は、あらゆる嘲罵や、無智の者の無自覚に対しても、叡山や南都の知識大衆と闘ったような、不屈さを示して、意力を曲げなかった。
機縁があれば、たとえ一人でも二人でも、それに対して、噛んで含めるように、教えて行った。
彼の根本義は、もとより凡夫直入の道だった。
「その姿のままでの信心」であった。
だが、由来、この地方にも、聖道門の形式的な仏教が、先入主になっているので、親鸞のいわゆるありのままの仏果を得ている――という易行道の教えは、説いても容易に、人々の理解に受け容れられなかった。
在りのままな姿の信心――在家往生の如実をどうしたらそういう人々に解(わか)らせることができるだろうか。
理論ではだめだ。
学問や知識のうえからそれを野に働く土民たちに教えることは、かえって、厭(きら)われることになるだろう。
――親鸞は考えた。
説くよりも、実際の生活をして見せることだ――と。
だが、玉日はすでに世を去っていた。
一子の範意は京で育てられている。
法衣(ころも)を着て、孤独の身を寺のうちに寂然と置いていては、口に、在家仏果を説き、在りのままの易行極楽の道を説いても、自身の生活は、やはり旧来の仏家の聖道門の僧と何らの変りなく見えるにちがいない。
一般の人たちは、ここに矛盾を見出して、
(あの坊主が、何をいうか)と、多分な孤疑を感じているのも無理ではないと思った。
まず、自分の生活から、この百姓たちと、何らの変りのないことを示さなければならないと気づいて彼は、
「妻をもちたい」と、周囲の者にもらした。
西仏と、生信房は、師の房の気持にはやくから共感していたので、さっそく檀徒の小島武弘に話した。
武弘は聞くと、
「まことに、そう仰っしゃったのか」と欣んだ。
その前から、武弘のところに、縁談があったのである。
真岡(もおか)の判官三善為教(ためのり)の息女で朝姫という佳人がその候補者であった。
そういう話が――親鸞の身辺に起りかけていると――すべての人間の運命というものの動いてゆく機微な時節が、いろいろな方から熟してきているように、同時にまた念仏門の帰依者の稲田九郎頼重とか、宇都宮一族などの地方の権門たちが、
「いつまでも、上人のおん身を、あのような廃寺においては、ご健康のためによろしくない。お心を曲げても、ぜひとも、もすこし人の住むらしい所へお移し申し上げねばわれらの心が相済まぬ」
そう結束して、下妻の庄からほど近い稲田山の麓――吹雪ケ谷に新しく一院を建てて、そこへ、移住するようにすすめてきたのである。
建保二年の春。
菜の花の咲きそめる坂東平野の一角に、力ある大工たちの手斧初(ちょうなぞ)めの音から、親鸞が四十二歳の人生のさかりにかかる稲田生活の一歩は初まった。
間もなく、庵室はできあがった。
木の香のにおう新院へ、三日月寺のほうから親鸞師弟は移ってきた。
間もなく、小島郡司武弘の媒介(なこうど)で、嫁御寮は、嫁いできた。
真岡の判官兵部大輔三善為教の息女といえば、里方も里方であり、媒人も媒人であるが、親鸞の目的は、身をもって、凡夫直入の生活をして見せるのであった。
在家往生の本願を実践するのにあった。
――で、もちろんその華燭の典は、いとも質素に行われた。