親鸞にとって、朝姫は第二の玉日であった。
嫁(かし)ずいてきてからすぐ翌年に、その裏方は、後に、小黒の女房とよばれた昌姫を生み、やがてまた、二年おいて、男子(おのこ)の明信を生んだ。
親鸞の望みどおりな、一庶民の生活図がそこに広がって行った。
嬰女(あかご)のお襁褓(むつ)の乾してある稲田の草庵の軒先からは、いつもうす紫に霞んでいる筑波の山が見えた。
窓からは、加波山の連峰が見え、吾国山(わがくにさん)の襞(ひだ)が、澄んだ日には、あきらかに手にとるように見える。
裏方は、子を抱いて、よく陽の下に出ていた。
そして、彼女のうたう子守唄は、すぐ庭先をながれている吹雪ケ谷の渓水に乗って、ひろい沃野へ聞えて行く――
稲田、福原をあわせて何千石という広芒な青田をわたって来るすず風が、絶えず、ここの僧俗一如の家庭を清新に洗っていた。
建保の六年六月には後に善鸞といった男の子が生れた。
その翌年の八月には、有房が生れ、はやくも四十九歳になった親鸞は、京にのこしてある長男の範意をあわせると、ちょうど五人の父となったわけである。
(いつの間に――)と、自分でも思うことがある。
こんな子沢山になろうとは、自分でも予期しなかったのであろう。
だが彼は、それらの子たちの生い育ってゆく間に、幾多の新しい学問と生きた教えを見出した。
やはり妻をもってよかったと思った。
子を持ってありがたいと思った。
そして、その法恩を、弥陀に感謝せずにはいられなかった。
「お父さま、お父さま。……アノおもしろい何日(いつ)もの田植歌をうとうて」
七歳になった昌姫は、父の法衣(ころも)のたもとに絡んでよくこうせがむ。
裏方は、有房に乳をふくませながら、その他愛ない子と自然の父とを、幸福そうにながめていた。
「ホホホホ。昌姫は、お父様の田植歌が、ほんにお好きじゃの」
すると、男の子らしく、ひとりで悪戯していた善鸞も、
「お父さま、歌うて、はやく聞かせて」
と、一緒になって、父の肩へ取りついた。
「はははは、ははは……」
と、親鸞は、ただもううれしいのだった。
どうして、人間というものは、かくも楽しくあるものかと、今の幸福が勿体ないほど、ただ笑いが出る。
「離せ。
……歌うてはやろうが、あの田植歌は、昌姫やそなたらのお守り歌ではない。
……それ、野良にあって、ああして働いておりましょうが。
……あの百姓衆に聞かせてやろうためじゃ」
「だも、お父様、お百姓たちは、みんな大人でしょ、子どもじゃないのに、どうしてお父様が歌をうたってあげるの」
と、昌姫はもう、そんな疑いを父にたずねたという。
「なんの」
と、親鸞は、この子にも、法の悦びを知る芽が宿れと祈りながら答えた。
「お百姓たちも、この父にとっては、皆、そなたたちと変りないわしの子じゃ。……どれ、きょうも好い日和(ひより)、わしの可愛い子たちのために外へ出て、田植歌をうたおうか」
親鸞が起ちかけると、
「お父さま、昌姫も、連れて行ってくだされ」
「わたしも」と、善鸞と昌姫は、両方から父のたもとにぶら下がった。