「新しい世界遺産と南九州の焼酎」(2/4)外国の影響を受けやすかった鹿児島の地理的特性

 1543年の鉄砲伝来以来、1549年のキリスト教の伝来など、南九州は常に世界の歴史の影響を真っ先に受ける地域でした。

 海に開かれたこの南九州は、海からのインパクト、いろいろな影響によって変化せざるを得ない地理的な必然性がありました。

昔から、海外交易を抜きにして歴史を語れないところであったということです。

 時は16世紀、大航海時代です。

ヨーロッパの商船がさかんに東南アジアにやって来て貿易をする時代です。

イスラムの商人たちや中国の船も東南アジアに向かいました。

そのときに、世界の文化がぶつかり、融合していったのです。

私は、この頃の日本を考えるとき、「倭寇(わこう)」の存在が大きいと思っています。

16世紀の倭寇といえば、中国人の商人集団です。

鉄砲を種子島に伝えたポルトガル人を案内したのは、ゴホウとかオウキョクと言われる倭寇であったこと。

また、ザピエルがマラッカから鹿児島まで乗ってきたジャンク船の船長はアバンという倭寇であったということが分かっています。

南九州は、倭寇の巣窟といわれていましたから、鹿児島の情報を彼らが入手するのは容易で、どこに鉄砲を持っていけば儲かるかと考えていました。

種子島は、当時から鍛冶(かじ)が盛んでした。

「種子鋏(たねばさみ)」も有名です。

きれいで質の良い砂鉄があったのです。

鉄砲を見本として譲ってもらえば、再生産できる地域でした。

つまり、鉄砲伝来は単なる漂着ではなく、明確な目的をもって行われたということです。

ザビエルが日本に来るきっかけを作ったジョルジュ・アルバレスというポルトガル船の船長がいます。

彼は、乗っていた船が山川(やまがわ)近くで故障したために、山川に半年程滞在し、船の修理をしました。

そして、東南アジアに帰るときに、ヤジロウという日本の青年を同行しています。

ヤジロウは、ザビエルに出会い、キリスト教の洗礼を受け、ザビエルを鹿児島に連れてきました。

 このジョルジュ・アルバレスが1546年に作成した『日本報告』に「この地域の人びとは、米か造る“オラーカ”という米焼酎をよく飲んでいる」と書いています。

 鹿児島というと、「芋焼酎」と考えがちですが、芋が日本に入ってきたのは1702年ですから、芋焼酎の製造はそれ以降のことになります。