思いがけなく、上人にこう呼びかけられると、女は、冥加におののいて、
「は、はい……」
と、綿のようにやわらかに、そのまま、ひれ伏した。
「同行衆は、もはや皆、おもどりなされた。おさしつかえなくば、もすこし、話して行かれぬか」
「もったいないお言葉でございまする」
「そう、堅うならずともよろしい。親鸞は、誰とも親しい仲じゃ、お寄りなされ、隔てのう、もそっと、こちらへお寄りなされ」
「はい」
「お内儀。――お帰りは遠いのでおざるか」
「河和田の者でござります」
「それでは近い……。して、主(あるじ)どのは?」
「平次郎と申しまして、柳島の御造営に働いている大工でございます。わたくしは、平次郎の女房で、吉といいまする」
「ほ……平次郎……。あの酒ずきでよう喧嘩をする男のお内儀か」
「さようでございまする」
お吉は、顔をあからめて、聞き取れないような小さい声になった。
「ようお上人様にも、良人(うち)のひとの噂をお聞きでございましょうが、おそろしい一徹者のうえに、大の念仏ぎらい。そのため、御庵室へ詣でたいと思っても、有難いお教えを聞きたいと願っても、良人のひとの手前、いつも思うにまかせませぬ」
「ム……」
親鸞はうなずいて、
「さだめし、良人(おっと)の気に入るには、なかなかご苦労がお在(わ)そうのう」
「い、いいえ……」
お吉は、こんなやさしい言葉を初めて人の口から聞いた。
村の人々も、自分を知ってくれる者は皆、なぐさめてはくれるが、親鸞の短いことばのうちには、何か胸を衝くような慈悲大愛の温かい息がこもっていた。
張りつめていた胸の氷が溶けるように、彼女はつい、ほろほろと涙をこぼしてしまった。
「お内儀」
「はい」
「お身ひとりが、苦患(くげん)の底に苦しんでいると思われるなよ。お身の貞節、お身の苦しみ、みな御仏も御覧(ごろう)ぜられている、この親鸞も、よう見ております。……なんぞ思いあまることなとあるなら、ちょうどよい折じゃ、わしに話してみるがよい」
「……有難うございます」
お吉は、畳へひれ伏したまま合掌して、
「この身に負わされた約束事と思うておりますから」
「それではならぬ、約束事、宿命と諦め、ただそれのみで抑えていては容易に、心は安らぐまい、かよわい女の身、もっと心持を楽におもちなされ、この親鸞とて、そなたと変りのない凡夫じゃ、愚人じゃ、ただ何事も御仏と二人づれなればこそ、こうして、気づよくもおられまする。……その御仏の力をお借りなされたがよい、なんぞ、胸に思いあまることがあれば、縋(すが)って、申されたほうがよいのです」
「お上人様……思いあまることというのは、信心をすれば、良人(うち)の心に逆らい、信心を離れては、今の私は、生きているそらもないのでございます。この女の道と、人の道とを、一体、どうしたらよいのでございましょうか、それをお教えなされて下さいませ」