「そうか、よう解った」
親鸞はうなずいて――
「良人の心に添おうと思えば弥陀に離れ、弥陀のおむねにすがろうとすれば良人の意志に反(そむ)く。――そういわれるのじゃの」
「はい……」
お吉は、頬に涙をまろばせながら、膝を、前へにじり寄せた。
「お上人様」
「おう」
「それはもう言葉にもいいようのない辛いことや恐ろしいことが、朝にも夜にも、この身を責め折檻するのでござります。……おねがいでござります、お上人さま、どうぞ私を、尼にして、お弟子の末の末にでも、おつかいなされて下されませ」
「尼に?」
眼をみはって、泣きおののく黒髪を見つめながら、
「まて。……尼になられたらどうなると思うておざるか」
「この黒髪さえ断(き)りましたならば、あの恐ろしい良人も、眼をさまして、心を持ち直してくれるかもわかりません。――また、私も永い年月、どんな辛抱しても、うちの良人(ひと)が真人間になってくれるよう、そして、世間のよい夫婦のよう、行く末に、今日の辛さや悲しみも、語り草にしてと思うて参りましたが……もうこのごろはその望みも持てなくなりました。身には生傷が絶えません、心には、暗いものがとれません、明けても暮れても眼を泣き腫らしているようでは、うちの良人の気持も荒(すさ)ぶばかりでございます。所詮、二人が一つ軒下に添っているのは、この世ながらの地獄を作っているようなもの、あの人のためにも、疲れた、私の身にも、尼になるのが、いちばんよい道だと存じます。どうぞ、お慈悲と思うて、お剃刀をいただかせてくださいませ」
「うむ、一応はご無理のないおたのみじゃが、しかしの、外の姿は尼と変えても、心のすがたをなんで変える」
「え……」
「黒髪を剃(お)ろしただけでは、心のすがたまで変えたとはいわれぬ。真実、今いうたようなお内儀の心ならば、まず黒髪はいつでもよい、なぜ、その心から先に変えようとはなさらぬか」
「お教えくださいまし、それが分れば、私は、お上人さまの仰っしゃるとおりに行います」
「よういわれた。真(まこと)、御仏に仕えようというご発心ならば、いつも親鸞が申すとおり、朝念暮念、ただ念仏を忘れぬことです。念仏を申すことならば、血の池の底、針の山のいただきからでも、いえることじゃ。声を出していうて悪ければ、口のうちでいう一声の念仏は、寺入りして千万度いう唱名よりは尊いのでおざるぞよ。その日その日の生活の苦労のうちに申してこそ、その念仏は生ける人の声として、御仏のお耳へもきっと届く。――疑いたもうなお内儀。雑業俗生生活(なりわい)の忙しきうちから申す念仏とて、きっと弥陀は受けたもうにぞ。……そうじゃ、親鸞が今、よい物を進ぜよう」
そういって、
「蓮位、蓮位」
と、呼んだ。
弟子僧に、硯(すずり)や筆や紙を運ぶようにいいつけて、親鸞は、六文字の名号を書き、それをお吉に与えて、
「これからは、ここへもお出にならぬがよい。御仏は今かりに、平次郎の身にやどって、お身の信心を試しておられる。良人の平次郎を御仏と思うて仕えたがよい」
と、諭した。