「こいつあ、いけねえ」
彼は、自分の危急を感じた。
お吉の死骸を、他人の手に持って行かれたとすると――平次郎の身に嫌疑のかかってくるのは当然である。
ぱっと、彼はそこを逃げだした、家の方へも行かなかった。
そのまま足を他国へ向けて、永久にこの土地を捨てるつもりだった。
だが――村境まで来て、すこし落着くと、それもまずいと思った。
自分から土地を捨てて逃げれば、お吉の殺害を、自分で証明していることになる。
いくら脛を飛ばしても、領主の令が伝われば、郡堺や村境の木戸で、すぐ捕まるに決まっている。
半日とは逃げきれないかも知れない。
「――山へ」
と、眼を上げたが、意地わるく、胃の腑(ふ)は空になっていた、それに、炭焼きや木樵(きこり)まで、自分の顔を知らない者はない。
「……そうだ」
彼は、その時もう高くのぼっている朝の陽(ひ)で、初めて、自分のすがたを見直した。
さだめし血みどろになっているであろうと思った、着物にも、何も血らしいものはついていないのだ。
だんだん腹がすわってきた。
平次郎は、田へ下りて水で顔や手足を洗い、農家の裏にあった藁草履をあしに履いた。
そして、わが家へも廻らずに、そのまま元の柳島へ引っ返してきたのである。
――入仏式の鐘はしきりに鳴りだしていた。
この日は、嘉禄(かろく)元年の四月の半ばであった。
沃野には菜の花がけむっていた、筑波も、下野の山々も、霞のうちから、あきらかに紫いろの山襞(やまひだ)を描いていた。
もみ烏帽子や市女笠や、白い頭巾――桃いろの被衣(かずき)などが、野や畦を、ぞろぞろとあるいてゆく。
山家の娘や、老人や、若い者たちまで、新しい衣装を着て、芳賀郡の大内へ、――柳島の建立を見に――詣でに――たいへんな人出なのである。
平次郎は、びくびくとして、その人たちの中にまじって入って行った。
自分の袂(たもと)にさわる人間にもぎょっとした。
しかし、人に馴れるに従って、大胆になってきた。
彼は、いつのまにか、にこやかな笑い顔を作り、平然と装って、
「よいあんばいですな」
と、そばの者に話しかけたり、
「よう、おはよう」
と、仲間の者を見ると、こっちからわざと挨拶して行ったりしていた。
「平次、おめえは、仕事着のままじゃねえか。どうして今日は、垢のつかねえ衣装を着てこねえんだ。お吉さんといういい女房もついているのに、気がきかねえ」
大工仲間の老人にいわれて、平次郎は、ぎょっとしたが、
「ところがね、あのお吉が、ゆうべ隣村の身寄りの者の家へ行ったきり、どうしたのか、今朝まで帰ってこねえんでさ。……で、面倒だから、つい、いつもの仕事着で来てしまったんですが、これじゃいけねえんですか」
「わるいことはないが、今日は、仕事は何もありゃあしねえ、みんなお上人様のお式を拝みに来ているのだから……」
「あっしも、きょうは、御本堂へ坐って、ありがたい入仏供養のありさまを、拝ませていただこうと思うんで」
「ふウム、おめえ急に、信心家になったんだな」
平次郎は、そんな軽いことばにも、すぐ顔色をうごかした。