どこか遠くの方で、嬰児(あかご)の泣く声がする。
平次郎は、夜具の中で、ふと、数年前に死んだお吉と自分との間にできた――亡き児(こ)の声を思い出した。
「……似ている」
彼はぞっとした。
嬰児の泣き声は、地の底からするように聞えた。
――また、ともすると、手斧(ちょうな)の刃で、ぱんと、後頭部を一撃に斬って殺したお吉の亡霊が、血みどろな顔をして、自分と共に、この家に帰ってきているような気がしてならない。
(――ゆるしてくれ)必死に叫んだと思ったら、それは夢だった。
――びっしょりと冷たい汗の中に身は硬(こわ)ばって眠っている。
死んだ児の泣き声――亡き妻のうらめしげな顔――火の車、地獄、鬼、赤い火青い火。
怖ろしい幻覚ばかりが、眼がさめても、瞼の前を往来(ゆきき)している。
がたがたと骨ぶしがふるえる。
夜の明けるのが、刻々と、待ちどおしい。
「おッ」
ふと寝床から顔を上げると、窓の破れ戸の隙間が赤く見えた。
日の出だ、と彼は救われたように飛び起きた。
そしてガラリと戸を開けてみたのである。
「――あっ」
だが、空はまだ真っ暗だった。
そして彼方(あなた)の原を、十二、三名の僧形の人影が、おのおの、真っ赤な焔(ほのお)をかざして――それはもちろん松明であるが――粛々と無言を守って通って行くのが眼に映った。
「な、なんだろう」
行列の先には、白木の箱を担ってゆく者だの、きらきらとかがやく仏具や幟(はた)をささげて行く者もあった。
「……そうだ。わかった。すっかり忘れていたが、今日は柳島の御堂の建立が成就したので、その入仏供養がある日だった」
――まアよかったと安心したように、平次郎は戸を閉めたが、すぐ次の不安に襲われて、そわそわしだした。
「待てよ……お吉のやつの死骸を……あのまま捨てておいたが、今日は入仏の供養に、朝早くからたくさんな人が集まる。……すぐ死骸が見つけられて、お吉とわかると……それにつれて、下手人も」
すこしもじっとしていられないような彼の眼つきだった。
「まずいぞ」
つぶやくと、帯をしめ直して、家の外へ駈けだした。
「人が集まってからじゃあ間にあわねえ。誰もしらねえうちに、お吉の死骸を……そうだ死骸さえかくしてしまえば」
そしてふたたび、柳島のほうへ駈けて行ったが、その時、彼のうしろから、赫々(かっかく)と大きな太陽の光が、下野の山々を朱(あけ)にそめてかがやき出していた。
「……しまった、夜が明けてしまった……。ええ、どうなるものか」
太っ腹をきめて、平次郎はなお先へ急いだ。
もう、伽藍は暁のさえざえした光の中に浮き出していた。
ちらほらと、廻廊や広庭には人影もあるいていた。
新しい御堂の大扉はすでに開かれて、内陣の壇には、先刻の僧たちが、仏具や帳(とばり)や蓮華や香台などをせわしげに飾っていた。
「……はてな……この辺だったが……たしかに、この角の欄干から」
平次郎は、自分で殺した女房の死骸を、血眼でさがしていたが、死骸はもうそこに見あたらなかった。