――もうだめだ。
お吉はそう観念した。
全身が、死をおもうて硬(こわ)ばってしまった。
妙に、走る意力もくじけて、
(御仏さま……お上人さま)とのみ心で叫んでいた。
――と彼女は眼の先に、深い死の谷間を見た。
ちょうど――御堂の廻廊の曲り角であった――お吉は欄干の角へ仆れるように手をかけた。
「ざまを見ろッ」
だっ――と躍ってきて、後ろから振りかざしてきた平次郎の手斧は、彼女の肩骨から頸(うなじ)へかけて、柱でもけずるように、ぴゅッ、とななめな光を描いた。
「――きゃッ!」
これが――彼女が良人へ残して行った悲愴な終りの一声えあった。
それと共に、彼女のからだは、欄干からのめり落ちて、御堂の真下へもんどり打った。
ずうん――とその闇の下に、不気味な地ひびきを聞くと、
「斬ったっ」
平次郎は青白い笑みをゆがめて、さけんだ。
「キ、斬ったッ……」
手斧をだらんとぶらさげたまま、彼はよろりと御堂の扉へよりかかった。
そして、しばらくは茫然と眸をひらいて白痴のような口を開(あ)いていたが、何か、冷やっこいものが、額から顔へかけて、たらたらと流れているのに気づいて、
「血……血だッ……」
掌で、彼は顔をこすった。
――と、彼の酒気はすっかり醒めていたのである、ぶるるッと、背ぼねから慄(ふる)いを立てて、
「――オ、オ吉っ」
と、うつろな声でよんだ。
急に身の毛がよだってきたらしい。
平次郎は、きょろきょろと鋭い眼を闇にくばった。
――手にさげている手斧の白い刃をながめた。
「あーっ、おれは」
大変なことをしてしまったと彼は初めて気がついた。
自分のすがたが自分の眼に見えてきたのである。
「……わ、わ、わ、……われアあ、どこへ行った、お吉っ」
怖々(こわごわ)、欄干からのぞいてみると、永年、連れ添ってきた妻は、暗い墓場の穴みたいな闇の底に、死骸になって仆れている。
よろよろと、平次郎はあゆみだした。
――眼も、耳も、口も、ぽかんとうつろにしたまま。
一段一段、彼は、悔悟の階段を下りてゆく。
――しかしもう悔いも男泣きも間にあわない。
大地は冷々(ひえびえ)していた。
――ひょっとして、自分のあるいている今の闇が――あの世という冥途(よみ)の国ではあるまいかなどと思った。
ぞっとして、うしろを振返った――亡妻(なきつま)の顔が――血みどろになって――黒髪のあいだから怨みの眼を光らせて、自分の襟元へ、青白い手を伸ばしてきそうな心地が幾度もするのだった。
「そ、そうだ」
柳島の境内を出ると、彼は、後も見ずに韋駄天のように駈けだした。
息をきって、わが家(や)へ帰ってきた。
裏の蓮根の古沼へ、どぼっと手斧を投げすててしまった。
そして、家の中へ入るなり戸をかたく閉め込んで、頭から夜具をかぶって眠ろうと努めた。