親鸞 2016年11月19日

 ――もうだめだ。

お吉はそう観念した。

 全身が、死をおもうて硬(こわ)ばってしまった。

妙に、走る意力もくじけて、

(御仏さま……お上人さま)とのみ心で叫んでいた。

――と彼女は眼の先に、深い死の谷間を見た。

ちょうど――御堂の廻廊の曲り角であった――お吉は欄干の角へ仆れるように手をかけた。

「ざまを見ろッ」

 だっ――と躍ってきて、後ろから振りかざしてきた平次郎の手斧は、彼女の肩骨から頸(うなじ)へかけて、柱でもけずるように、ぴゅッ、とななめな光を描いた。

「――きゃッ!」

これが――彼女が良人へ残して行った悲愴な終りの一声えあった。

それと共に、彼女のからだは、欄干からのめり落ちて、御堂の真下へもんどり打った。

 ずうん――とその闇の下に、不気味な地ひびきを聞くと、

「斬ったっ」

平次郎は青白い笑みをゆがめて、さけんだ。

「キ、斬ったッ……」

手斧をだらんとぶらさげたまま、彼はよろりと御堂の扉へよりかかった。

そして、しばらくは茫然と眸をひらいて白痴のような口を開(あ)いていたが、何か、冷やっこいものが、額から顔へかけて、たらたらと流れているのに気づいて、

「血……血だッ……」

掌で、彼は顔をこすった。

――と、彼の酒気はすっかり醒めていたのである、ぶるるッと、背ぼねから慄(ふる)いを立てて、

「――オ、オ吉っ」

と、うつろな声でよんだ。

 急に身の毛がよだってきたらしい。

平次郎は、きょろきょろと鋭い眼を闇にくばった。

――手にさげている手斧の白い刃をながめた。

「あーっ、おれは」

大変なことをしてしまったと彼は初めて気がついた。

自分のすがたが自分の眼に見えてきたのである。

「……わ、わ、わ、……われアあ、どこへ行った、お吉っ」

怖々(こわごわ)、欄干からのぞいてみると、永年、連れ添ってきた妻は、暗い墓場の穴みたいな闇の底に、死骸になって仆れている。

 よろよろと、平次郎はあゆみだした。

――眼も、耳も、口も、ぽかんとうつろにしたまま。

 一段一段、彼は、悔悟の階段を下りてゆく。

 ――しかしもう悔いも男泣きも間にあわない。

 大地は冷々(ひえびえ)していた。

――ひょっとして、自分のあるいている今の闇が――あの世という冥途(よみ)の国ではあるまいかなどと思った。

ぞっとして、うしろを振返った――亡妻(なきつま)の顔が――血みどろになって――黒髪のあいだから怨みの眼を光らせて、自分の襟元へ、青白い手を伸ばしてきそうな心地が幾度もするのだった。

「そ、そうだ」

柳島の境内を出ると、彼は、後も見ずに韋駄天のように駈けだした。

息をきって、わが家(や)へ帰ってきた。

裏の蓮根の古沼へ、どぼっと手斧を投げすててしまった。

そして、家の中へ入るなり戸をかたく閉め込んで、頭から夜具をかぶって眠ろうと努めた。