「――うぬっ」
平次郎は夜叉になっていた。
その手に提げられていた手斧(ちょうな)は、彼女のすぐ後ろへ迫って、
「思い知れっ」
と、また烈しい力で振り下ろした。
仏の加護といおうか、紙一重の差で、鋭い手斧の刃は、お吉の黒髪をかすめたのみで、横へ反れた。
「ちえッ」
平次郎は悪鬼の舌打ちをならした。
そしてなお逃げ転(まろ)ぶお吉を追って、
「阿女っ、逃がしゃあしねえぞっ」
と、さけんで躍った。
――お吉は走った。
どこへどういう目的(あて)などは元よりないのである。
藪や畑や雑草の中をただ怖ろしさに駆られるだけ駆けたのだった。
「……アア」
しかし、女の足には限りがあった。
心臓が圧(お)しつぶされるように苦しい。
お吉は、大きな息をあえいで、べたと大地に坐ってしまった。
と――その大地を打って、ばたばたと追いかけてくる者の跫音(あしおと)がひびいてくる。
お吉はハッとしてまた起った。
――起ち上がったが、もう、肺はそれ以上に走ることに耐えなくなっていた。
よろよろと蹌(よろ)めいてしまう。
「待たねえかっ、畜生っ」
平次郎の声だった、声までがもう夜叉の叫びのように物凄くしゃがれているのである。
「ど、どうしよう」
お吉は髪の根まで熱くなった。
息は喘(き)れるし、助けを呼ぶにもこの深夜に誰がいよう。
も後ろから来る荒い跫音は、すぐ近くまで追いついてきた。
――彼女は前にはもう何も見えなくなっていた。
真っ暗な足の先が、たとえ淵でも、崖でも、池でも、駈けずにはいられなかった。
と――彼女の眸のまえは、谷間の崖のような高い影に塞がれてしまった。
お吉は、何物かにつまずいた。
手をついた触感で、それが階段であると分ると、再び無我夢中にそれを駈けのぼった。
よろめく身を支える弾みに、なにか冷たい金属の肌が手にふれた。
それは階段の上の擬宝珠(ぎぼうし)柱であった。
「オオ、ここは柳島の御造営の伽藍じゃな。……オオ新しい御堂の縁」
ほとんど無意識に近いうちに彼女はふと仏のふところを思った。
慈悲の御廂(みひさし)の下ならば、同じ死ぬにも――狂乱した良人の刃物で殺されるにしても――幾分かなぐさめられる心地がする。
その時、平次郎がもう御堂の下まで来ていた。
ドギドギと光る手斧の刃が、闇の中をうろついている。
獣に似た恐い眼が、御堂の床下をのぞいていた。
それから廻廊の横のほうへ廻りかけたが、気配を感じたものとみえ、やがてのしりと、お吉の上がった階段を彼も上ってきた。
つよい木の香が鼻を打つ。
柳島のこの御堂も、昨日ですっかり落成していたのである。
丸太足場も、筵掛(むしろかけ)もすっかり取払われて、きのうの夕方は、かんな屑一つないようにきれいに掃き浄められていた。
そして、御堂の庭には、敷砂まで撒いてあった。
「い、いやがったなッ」
吠えたける一声がしたかと思うと、平次郎は、お吉の影を見つけて、タタタタタと躍りあがって、駈けてきた。
「――あッ、あれっ」
「うるせえっ」
二十幾間かある廻廊を、お吉は黒髪をながして逃げまわり、夜叉の手斧はあくまでそれを追いつめにかかった。