親鸞 2016年11月14日

「――うぬっ」

平次郎は夜叉になっていた。

その手に提げられていた手斧(ちょうな)は、彼女のすぐ後ろへ迫って、

「思い知れっ」

と、また烈しい力で振り下ろした。

 仏の加護といおうか、紙一重の差で、鋭い手斧の刃は、お吉の黒髪をかすめたのみで、横へ反れた。

「ちえッ」

平次郎は悪鬼の舌打ちをならした。

そしてなお逃げ転(まろ)ぶお吉を追って、

「阿女っ、逃がしゃあしねえぞっ」

と、さけんで躍った。

 ――お吉は走った。

どこへどういう目的(あて)などは元よりないのである。

藪や畑や雑草の中をただ怖ろしさに駆られるだけ駆けたのだった。

「……アア」

しかし、女の足には限りがあった。

心臓が圧(お)しつぶされるように苦しい。

お吉は、大きな息をあえいで、べたと大地に坐ってしまった。

 と――その大地を打って、ばたばたと追いかけてくる者の跫音(あしおと)がひびいてくる。

お吉はハッとしてまた起った。

――起ち上がったが、もう、肺はそれ以上に走ることに耐えなくなっていた。

よろよろと蹌(よろ)めいてしまう。

「待たねえかっ、畜生っ」

平次郎の声だった、声までがもう夜叉の叫びのように物凄くしゃがれているのである。

「ど、どうしよう」

お吉は髪の根まで熱くなった。

息は喘(き)れるし、助けを呼ぶにもこの深夜に誰がいよう。

 も後ろから来る荒い跫音は、すぐ近くまで追いついてきた。

――彼女は前にはもう何も見えなくなっていた。

真っ暗な足の先が、たとえ淵でも、崖でも、池でも、駈けずにはいられなかった。

 と――彼女の眸のまえは、谷間の崖のような高い影に塞がれてしまった。

お吉は、何物かにつまずいた。

手をついた触感で、それが階段であると分ると、再び無我夢中にそれを駈けのぼった。

 よろめく身を支える弾みに、なにか冷たい金属の肌が手にふれた。

それは階段の上の擬宝珠(ぎぼうし)柱であった。

「オオ、ここは柳島の御造営の伽藍じゃな。……オオ新しい御堂の縁」

ほとんど無意識に近いうちに彼女はふと仏のふところを思った。

慈悲の御廂(みひさし)の下ならば、同じ死ぬにも――狂乱した良人の刃物で殺されるにしても――幾分かなぐさめられる心地がする。

 その時、平次郎がもう御堂の下まで来ていた。

ドギドギと光る手斧の刃が、闇の中をうろついている。

獣に似た恐い眼が、御堂の床下をのぞいていた。

それから廻廊の横のほうへ廻りかけたが、気配を感じたものとみえ、やがてのしりと、お吉の上がった階段を彼も上ってきた。

 つよい木の香が鼻を打つ。

柳島のこの御堂も、昨日ですっかり落成していたのである。

丸太足場も、筵掛(むしろかけ)もすっかり取払われて、きのうの夕方は、かんな屑一つないようにきれいに掃き浄められていた。

そして、御堂の庭には、敷砂まで撒いてあった。

「い、いやがったなッ」

吠えたける一声がしたかと思うと、平次郎は、お吉の影を見つけて、タタタタタと躍りあがって、駈けてきた。

「――あッ、あれっ」

「うるせえっ」

二十幾間かある廻廊を、お吉は黒髪をながして逃げまわり、夜叉の手斧はあくまでそれを追いつめにかかった。