平次郎は空虚(うつろ)だった、人浪と念仏の声にただふらふらと押されているに過ぎない。
心のどこかでは絶えず自分の犯した大罪の発覚をおそれ、あらゆる人間に向って鋭い警戒と神経が休まらなかった。
「ホウ、御本堂じゃ」
「なんとお見事な」
「あれに、御勅額も」
群衆の顔がみな上を仰いで、眼をみはりながらつぶやいているので、平次郎も初めて、本堂の正面に来て立っている自分に気づいた。
十二間(けん)四面の新しい木の香にかがやいている伽藍には、紫の幕が張りまわされ、開かれた内陣の御扉には、おびただしい灯りが耀いて見える。
下野の城主大内国時の一族をはじめ、久下田太郎(くげたのたろう)秀国、真壁の郡司や相馬の城主高貞など――そういった歴々の帰依者も、きょうはすでに家臣をひきいて、本堂の左右にいながれ、伽藍成就のよろこびを囁き合っていた。
平次郎は、遠くからその光景を仰ぎ見たが、太刀を帯びている国主や武士は皆、やがて自分を縛る鬼のように見えて、じっとしていられなかった。
「――誰か今朝のことを、噂していないか」
猜疑に尖った眼は、群集をかけ分けて、ふたたび廻廊の角にあたる所の――自分が殺人を犯した場所へ――怖々と行ってみた。
けれど、そこにも、人がいっぱいいるだけで、なんの異状も見出されないし、
(河和田のお吉さんが殺された――)と、ささやいている者もない。
平次郎は、独り合点に、
「アア分った」
と、胸のうちでつぶやいた。
「きょうはめでたい伽藍開きと共に、入仏供養という、この村創(はじ)まって以来の日だ。……それで、お吉の死骸を、寺の者があわてて始末して、伽藍が血によごれたなんてことも、そっと隠しているにちがいない」
こう自分勝手に解釈をきめると、平次郎は、なんだか不安心でもあるし、安心したような気もしてきた。
(落着いていろ、口を拭いていろ)と、彼は自分へつよくいって聞かせた。
急に、辺りの者が、一斉にべたべたと大地へ土下座し始めたので、平次郎もあわてて坐った。
いや、その辺りがかりでなく、山門から境内の者すべて、一人として、立っている者がなくなったのである。
萱(かや)の風に伏すように、すべての人々が、頭(かしら)を下げ、念仏を唱和し、やがて、撞(つ)き出された梵鐘の音と共に、しいんとした静寂が見舞った。
「……親鸞さまじゃ」
「……お上人様じゃ」
ひそかな囁きに、平次郎はそっと首をのばして本堂のほうを見た。
その時本堂の内では今しも稲田の草庵から移された善光寺如来の御分身が、金堂厨子の内ふかく納められ、導師親鸞がおごそかな礼拝を終っているところだった。
「――やっ」
突然、こう頓狂なさけび声を揚げて、平次郎は、すべての人が頭を下げている中から、たった一人、発狂したように飛び上がった。
導師親鸞聖人のそばには、大勢の御弟子たちが従(つ)いていたが、その中に――親鸞のすぐうしろに、俗体の女すがたが、ただ一人まじっているのであった。
「――お吉だっ。……オオお吉にちげえねえっ」
彼はふらふらと歩き出したが、すぐ群集につまずいて群集の中へ仆れた。