平成29年2月法話『平等心 違いを認め合う心』(前期)

誰しも集合写真をもらって最初に探すのは自分の姿ではないでしょうか。

他人を最初に探してから自分を探す方はあまりいらっしゃらないでしょう。

私たちの心を伺うと他人よりは自分が大事であって、その心がある限り物事を平等に見ることはできないように思います。

平等心とは、私たちの心ではなく阿弥陀さまの心の事といただいています。

阿弥陀さまはすべてのものの命を平等にご覧になり、みんな私にとって一人子のような存在であり、いつも側にいるよとはたらいてくださいます。

その阿弥陀さまを親とし、阿弥陀さまに育てられるものの姿を、親鸞聖人は「愚」と顕されました。

阿弥陀さまに育てられるとお金が増えるのでもなく、病気が治るのでもなく、知識が増えて賢くなるのでもない。

愚か者になるのです。

親鸞聖人ご自身も愚禿釈親鸞とご自身のお名前に「愚」という字を付けて名のられていらっしゃいます。

愚か者になるとは、「私のなかには本当に頼りになるものは何もない。

私の命は想像を超える多くのご縁に支えられ生かされている命であった。

生きているのではない、生かされているのだ。」と頷くことができるようになるということです。

しかしそれは何も特別なことではありません。

親鸞聖人は『愚禿鈔』という書物に「愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。」と書かれて、私の心は、内には愚者の心をもっているが、外面は賢く装っている。

とおっしゃいました。

誰しもが外見は賢く振る舞いますが、内側に「愚」の心をもっているのではないでしょうか。

阿弥陀さまに育てられるという事はそういう真実の姿がだんだん見えてくるのでしょう。

自分自身のこの命が多くご縁に支えたれて生きているという真実の姿、つまりに愚者の姿に気付かされたならば、他人を責める心ではなく違いを認める心がめぐまれてくるのではないでしょうか。

合掌