2020年10月法話 『思い通りにならないのが人生』(中期)

日頃、私たちは、漠然と「自分の人生は、自分の思い通りになるものだ」と信じています。そのため、何か自分の思い通りにならないことや不都合なことが起きたりすると、「おかしい」とか、「なぜ、こんなことに…」などと思ったりします。そして、そのうまく行かない理由は、自分の内にではなく、ほとんどの人が自分の外に求めようとします。端的には、「あいつのせいで…」「こいつのせいで…」などと、その責任を他に転嫁してしまうのです。このように、自分の身に起きた不都合な事実を引き受けようとせず、他に求めるあり方を仏教では「愚痴」といいます。

確かに、誰もが自分の人生が自分の思い通りに展開すれば、それこそ素晴らしい人生を生きることができるかもしれません。だいたい私たちは、自分が不幸な出来事に見舞われることなど、誰も願ってなどいませんし、予想さえしていません。近年は、自然災害が甚大になる傾向にありますが、梅雨時期の豪雨災害や、台風の襲来による大雨・強風などによる激甚災害などが、連年のように日本の各地で発生しています。これらに加えて、今年は春から新型コロナウィルス感染症の感染拡大がやまず、それこそ地球全体を席巻しています。殊に、感染症の拡大は人々の人体だけでなく、経済を揺るがし、ウイルスに感染した人を、あろうことか非難したり差別したりする風潮が横行するなど、その心までも蝕んでいます。

これらは、誰一人として臨んでいなかった好ましくない事柄であり、人々にとってまさに「思い通りにならない現実」だといえます。けれども、今私たちが直面している現実は、声を枯らして泣こうと叫ぼうと、決して変わることはありません。加えて、それぞれの人に起きたことは、誰も代わってくれないのです。

「仏説無量寿経」の中に「身自らのこれをうけ、代わる者あることなし」と説かれています。これは、「人生で苦しいこと、悲しいことに出会っても、誰も代わってくれないし、自らこの苦しみ悲しみを引き受けて生きなければならない」ということですが、私という人間を生きる者は世界中でこの私しかいないのです。にもかかわらず、私たちは自分よりも良い状態にある人を見ると、「私もあの人みたいな人生だったら良いのに」と、その人をうらやみ、一方で「自分は不幸だ」と歎いたりしています。

それもこれも、根底にあるのは「私の人生は私の思い通りになるはずだ」という思い込みです。これに対して、お釈迦さまは「人生は苦なり」と説いておられます。この「苦」とは、まさに「私の人生は思い通りにならない」ということです。それを端的に「生・老・病・死」の「四苦」と言います。気が付けば、私はすでに生まれていました。時代も環境も、性別も能力も、何ひとつ選びのないままに私として生まれ、しかも死ぬまで私を生きなければならないのです。また、年を重ねていくと若いころには特に気もしなかったことが、だんだんできなくなっていきます。当たり前と思っていたことが、いつの間にか当たり前ではなくなっていくのです。さらに、身体ばかりでなく心も病み、まさに心身共に蝕まれていきます。そして、最後には「嫌だ」と言っても死んでいかなければなりません。しかもいつどんな形で死ぬかわかりませんし、たとえいつ頃こんなふうに死にたいと思ってもほとんど叶うことはありません。

まったくもって我が身のことでありながら、何一つとして私たちは思い通りならない人生を生きているのです。にもかかわらず、私たちはしばその現実から目を背け、漠然とした期待感を保ちながら、「私の人生は思い通りになるものだ」ということを信じています。そして、期待通りにならない事実が起きたときには、「自分が悪いのではない」と、他にその責任を転嫁することに終始しています。

けれども、思い通りにならないのがまさに私の人生なのです。お釈迦さま教えは、そのことを私たちに気づかせると共に、私という人間を生きていくものは私以外にいないのだということを自覚せしめ、たとえ不都合なことであって、我が身の事実のすべてを引き受けていく勇気を与えてくださいます。仏教では、その勇気を「智慧」といいます。一度限りの人生を愚痴のまま終わってしまうのか、智慧をもって切り拓いていくのか。それを選ぶのも私自身です。