表題の件についてどのように思われるでしょうか。思い通りにならない人生は出来れば避けて通りたいというのが素直な意見かもしれません。しかし、思い通りにならないのが人生、それが真実というわけです。このことは誰もが人生を通して体験するのではないかと思います。私も最近「老い」ということを通して気づかされたように思います。
私は体を動かすことが好きで、最近草野球の練習に参加しています。運動音痴なもので上達はしませんが、練習自体とても楽しいです。練習をしていると中学、高校時代の部活の時を思い出します。その当時はどれだけ走っても大丈夫でしたし、どんなに疲れても一晩で回復しました。しかし、今は30代半ば、走れば10分で疲れます。疲れも1週間はとれません。普段は健康でまだまだ元気と思っていますが、いざ身体を動かすと、すぐに身体が悲鳴をあげます。運動不足ということもありますが、10代・20代のようにはいかないことを実感します。日々の生活の中では無自覚ですが野球を通して私の体は確実に老いていることを実感する思いです。
老いというものは、今までできたことができなくなっていく、一種の寂しさみたいなものがあるように思います。このまま歳をとり続けていけばどうなるのか。運動の機能はさらに低下していきます、目も見えなくなり耳も聞こえなくなっていくでしょう、最後は寝たきりということも考えられます。そうなったとき私はどんな思いで生活をするのか想像もつきません。そこには大きな寂しさ、孤独感があるかもしれません。
お釈迦様は「一切皆苦」ということをおっしゃいました。ここでの「苦」は苦しみですが、思い通りにならないと読み替えても問題ありません。一切のものが思い通りにならないということです。非常に厳しい現実だと思います。しかし、実はこの思い通りにならない人生こそ最も有難い人生とも示されます。浄土真宗を大切に頂いた詩人の一人に榎本栄一さんという方がいらっしゃいます。その方の詩を紹介させて頂きます。
遠くなった耳が 世音の中に 仏さまの声を ふと聞かせていただく
老いとはただ虚しいだけではなく、仏さまの声、真実を知らせるはたらきがあるということではないでしょうか。元気な時は気づかないけれども、それらが失われていくことで自分が何の上に生きているのか、生かされているのか、そのことを感じる喜びがここには示されるように思います。目が見えないからこそ見える、耳が聞こえないからこそ聞こえる、迷いの中にいた自分が老いを通して解放されていく、そのはたらきを有難いものとして受け止めていたのではないかと思います。
私自身これからもどんどん歳をとります、それに合わせて思い通りにならないことも増えていきます、その中で自分を支えるはたらきを身体全体で感じながら、そこに手を合わせる生活を営みたいと思うことです。