新聞に、次のような投書がありました。
ある日のこと、駅につくと落雷のために電車は大幅遅れ。
私は、先頭に並んで電車を待ち続けていた。
みるみるうちに後ろは長蛇の列。
しばらくして、やっとアナウンスが「長らくお待たせいたしました。次の電車の到着は4番線に変更になります。」
その瞬間、並んでいる人たちは一斉に回れ右。
気がつけば、私は列の最後尾になっていた。(大阪・Kさん)
お釈迦さまは「人生は苦なり」と言われた。なぜ「苦」かというと、「人生は思い通りにならないもの」だからです。考えてみますと、この世の中に、何一つ不自由なく、すべての物事が自分の思い通りに進んでいく人がいるのでしょうか。
「ご苦労さま」という、人をねぎらう言葉があるように、人生はなかなか自分の計算した通り、思い通りにはいかないものです。だから、苦労が絶えないのだと言えます。
お金が足りなくて生活に苦しむ人、病気のために苦しむ人、対人関係が思い通りにならなくて苦しむ人。人は、それぞれ、いろいろなことが思い通りにならいことで、苦しみを抱えながら生きています。
また、一番身近で、助け合い・支え合いながら生きていかなくてはならない家族との関係はどうでしょうか。夫婦・親子・兄弟、ひいては親戚・近隣・勤め先での人間関係にしても、思うようにならない不自由な出来事は日々繰り返されます。
私みたいに古稀(70歳)を過ぎますと、一番当て頼りにしていた自分自身の身体でさえ、油の切れた自転車の車輪のようにギシギシしてきて、なかなか思い通りにならなくなってきました。
さらに、世の中を見渡せば、今年はコロナウイルス感染症の拡大で、世界中の人びとが右往左往しながら対策に躍起になっています。そんな中、情けなく思うのは感染した人への対応です。はたして、いったい誰が好き好んで感染者になりたいと思うでしょうか。けれども、いくら用心していても、縁にふれれば感染してしまいます。
ところが、周囲の人びとは、感染した人を気遣うどころか、人間の「煩悩」という自己中心の本性を剥き出しにして、感染者やその家族までも差別し、いたるところで不協和音が発生しています。何とも、「痛ましい」としか言いようのないのが、私たちの現実の生活に見られるありさまです。
多くの人がそのようなあり方に陥るのは、現実から目を背け、漠然と「自分の人生は思い通りにいくはずだ」と考えているからにほかなりません。思い通り、計算通りにいかない人生であればこそ、自分の人生を悔いの残らないように力いっぱい生き抜く道を教えてくださるのが、仏教という教えです。