平成29年11月法話『無明 自分の愚かさを知らないこと』(前期)

『無明(むみょう)』と言う言葉は、読んで字のごとく『明るさが無い状態』のことですから、真っ暗な暗闇を指しています。

皆さんは、暗闇ときくとどんな状態をイメージされますか。

私自身は、夜をイメージするのですが、よくよく考えてみるとこの夜はあくまでどこかに電気がついていたり、あるいはすぐに明るくすることができる環境であったりして、本当の暗闇ではないことに気づきます。

最近は手にしているスマートホンをつかって、機能のひとつであるカメラのライトをオンにすることで、その夜の暗闇の中を照らすことも多いものですから、本当の暗闇の中にいる・あるということを意識することは全くといっていいほどないような気が致します。

すなわち、私自身が今暗闇の中にいるということに気づくこともなく、それどころか正しい道が見えずにさまよっていると思うことは非常に少ないのではないでしょうか。

誰しもが自分は間違っていない、正しいと思う・思いたいそう思っていくことで、よりこの私が『無明(むみょう)』の暗闇の中にあるということにさせるのではないでしょうか。

何もみえない、わからない暗闇の中は大変な不安と心配が付きまといます。

だからこそ、私自身が暗闇の中で、スマートホンのカメラのライトをつけようとするように光を求めるのではないでしょうか。

光がありのままのもののすがたを照らし出す、そのことで私たちはいろんなものをみることができますし、ひいては私自身も光に照らされるからこそ、この自分の姿をみることもできるのではないでしょうか。

『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』にこのようなお言葉があります。

無明長夜(むみょうじょうや)の灯炬(とうこ)なり

智眼(ちげん)くらしとかなしむな

生死大海(しょうじたいかい)の船筏(せんばつ)なり

罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ

浄土真宗の開祖親鸞聖人は、「人生は暗闇を手探りで歩むようなものである。風雨にさらされることもあるが、嘆(なげ)くことはないぞ。阿弥陀さまが用意してくださった灯火(ともしび)があるぞ。念仏という船に乗せていただき、苦悩の海を渡らせていただこう」とお示しになっておられます。

若い時、老いた時、元気な時、病気の時、どんな時でも、阿弥陀さまは「南無阿弥陀仏とよんでおくれ、私をたよりとしておくれ」と、よびかけておられます。

そのよび声と共に歩むとき、私の深く尊い命の姿を知り、そのことを忘れて日々を過ごしている自分に気づく、それまで命を喜びながら生きることを忘れていた、見れずにいた愚かな私をみていくことができるのではないでしょうか。

私の心の闇を破り、歩む道を照らしつつ、背中を押してくれる温かい言葉、それが「南無阿弥陀仏」という仏さまからの安心のメッセージであり、無明の闇を照らしてくださっているのだと親鸞聖人はお示しくださいました。

深くお念仏を味わいながら、精一杯いのち輝かせて人生の歩みを進めていきたいものです。