平成30年5月法話『願われて生まれてきた 育てられてきた』(前期)

私は「博幸(ひろゆき)」という名前なのですが、正直なところ、中学校を卒業するまでは自分の名前があまり好きではありませんでした。

その理由は、とても「平凡な名前」だからです。

これまで、何人となく自分と同じ名前で漢字まで同じという人を目にしてきましたし、実際に出会ってもきました。

それでも高校生になると、長くつきあってきた名前でもありますから、愛着も生まれてきますし、友だちから姓ではなく、名前で「ひろ」とか「ひろゆきくん」と言われると、うれしい想いもするようになりました。

あなたの名前も、両親や祖父母、あるいは名付け親など、それぞれ誰か身近な人が深い愛情と心をこめてつけてくださった名前なのではないでしょうか。

ちなみに私は、祖父と父より一文字ずつ授かってつけられた名前なので、自分ではそれほど意味なくつけられた名前だと思いこんでいました。

ところが、数年前祖父が亡くなったとき、両親や祖母が私の名前の由来について話をしてくれました。

私の名前を一番喜んでいたのが、祖父だったのだそうです。

その理由は、私は祖父にとっての初孫だったのですが、その子が「自分の名前の一字を受け継いでくれている」ということで、「名前の一字を通して命の絆を継承していくことができる」「自分の想いや願いを伝えていくことができる」と、思ったからということでした。

そのことを聞いて、私はそれまで「平凡な名前」と思っていた自分の名前が、実は深い願いの中にあったのだということを知りました。

また、同時にそれまで多くの人びとに支えられ、たくさんのお育てをいただいてきたことにも気づき、とてもありがたい想いがしました。

そして今では、同じ名前のひとがいても、ひとりとして同じ命はない、みんなかけがえのない尊い願いの中をそれぞれ生きているのだと思えるようになりました。

まさに、自分の名前の由来を知ることを通して、自分の名前の中にある想いと願いを感じると共に、名前には多くの願いが込められていることを知ることができたのでした。

私たちを照らす光には、ものを明るく照らしはっきりさせるというはたらきと、ものをあたたかく包み育(はぐく)むというはたらきがあります。

浄土真宗の本尊である阿弥陀如来は、そのみ名(名前)を通して、私たちの命を照らしていてくださいます。

この阿弥陀さまの無限なる光のはたらきに遇うことによって、自分では見えなかった命の姿をみて、これからの命の歩みをより大切に踏みしめながら歩みをすすめていけるのではないでしょうか。

本当の自分の姿にきづかせていただくと、より命を喜んでいけるように思います。

同時に、そんな私を放っておけないという阿弥陀さまのあたたかいおこころに包まれていることを知らせていただくのです。

そして、阿弥陀さまは無限なるいのちをもつ仏さまですから、この阿弥陀さまの光のはたらきはいつまでもとどまることがないことも併せて知らせていただきます。

私たちは、「阿弥陀」という名前に込められた願いをよく受けとめてお念仏を申させていただくこと。

お念仏を申しながら「阿弥陀」という名前に込められた願いをよく味わわせていただくことが大切です。

み名に込められた願いをみ心としてあじあわせていただきながら、一日一日大切にすごしてゆきたいものです。