私たちは、それぞれ生まれた時から自分の「名前」を持っていますが、その名前は自から名のったものではなく、その多くは親の願いによって名付けられたものです。
一般に親は、子どもが母親の胎内にある時から「このような人に育ってほしい」とあれこれ願い、その期待を込めてわが子に名前をつけます。
そのような意味で、私たちは生まれる前から願われて生まれてきたのであり、そして生まれてから成人するまで、その願いのもとに育てられてきたのだと言えます。
けれども、生まれてから自分の名前を呼ばれることは数限りなくあっても、その度に自分の名前に託された願いを意識することはほとんどありません。
一方、生活していく中で、私たちは自分なりにいろいろなことを願い、その願いをかなえるために日々努力を重ねながら生きています。
その願いの具体的な内容は千差万別ですが、ひとことで言うと、私たちは誰もが「幸せになりたい」と思って生きているのだと言えます。
なぜなら、自分の思いがかなうと「幸せだ」と感じますし、自ら望んで「不幸になりたい」などと思っている人など、どこにも見あたらないからです。
そうすると「幸せになるための努力を積み重ねてきたのが人類の歴史だ」という見方もできますが、では時代が進むにつれて、少しずつでも幸せというものが具体化してきたかというと、どうもそのようには言えない気がします。
確かに、身の回りのことはとても便利で快適になってきましたが、若者を対象に行った意識調査で「将来、今よりよくなると思いますか」という質問すると、「良くなる」という答えは極めて低い数値しか示さないからです。
それは、「今より悪くなる」と考えている若者が多いということです。
確かに、地球の温暖化傾向に伴う気象変動により、世界各地で毎年のように深刻な災害が発生していますし、幸い世界大戦といわれるような多くの国を巻き込んだ戦争は第二次世界大戦以降勃発していませんが、イスラム国に象徴されるテロとの戦いは依然として終息する気配はありません。
国家間でも助け合い支えあうあり方は行き詰まりを見せ、自国のみの利益を追求する在り方が台頭し世界各地に蔓延し始めています。
また、地震国と形容される日本列島では、近い将来予想される大震災の発生とそれに連動する津波による大災害が懸念されています。
さらに、少子高齢化による人口減少とその影響による年金受給開始年齢の高齢化と給付額の減少、消費税も今の8%から来年は10%に上がることが決まっていますが、将来はさらに上がることが検討されるなど、未来における明るい話題はほとんど聞かれません。
そのため、若者への意識調査の結果は、むしろ妥当な数値かもしれないと、変に納得さえしてしまいます。
それでも、私たちは誰もが「生まれてからの願い」を持って生きています。
それは、自分の意識を持ち始めてからの願いと言えますが、その根底にあるのは「自分がかわいい」という思いです。
実は、私たちは生まれてからこれまで、その思いを一歩も離れることのないままに生きているのだといえます。
もちろん、その内容は人それぞれですから、みんな自分中心の生き方に終始することになります。
そのため、小は家庭から大は国家の問題にいたるまで、私たちの「自分がかわいい」という思いは抜き難く、私たちのあらゆる行動や暮らし方を染め抜いてしまっています。
そして、それがぶつかりあう所に争いが生じ、拡大していくと地域間や国家間での戦争という形で顕在化し、自らも傷つき他人も傷つける痛ましい行為が今日まで繰り返し続けられています。
ところで、仏教では人間を「機」という言葉で表現しています。
そして、この機を「微・宜・関」の三つの言葉で教えています。
「機微」とは、かすかなものをもっているもの、意識よりももっと深いところにいのちそのものの願いを持っているものというのが「微」という意味です。
そして、そのかすかなものは具体的には私の上にどのような形で現れるかというと不安です。
思えば、私たちは誰かに教えられたわけでもないのに、何かしら人生に不安を感じることがあります。
この不安とは何かというと「今のあり方は確かか」という問い返しです。
つまり、私の中に私のあり方を問い返すものがあるのです。
漠然とした感覚ではあっても、自分の生き方に不安を感じることがあるのは、おそらく今の私の生き方に「それでいいのか」と、何か問うものがあるからです。
私たちが意識しているのは、「自分がかわいい」という思いだけですが、その私に心の奥の深いところから「不安はないか」と問う意識が、かすかではあるものの確かにあるのです。
次に「宜」というのは、自分に先立って同じ道を歩んでいる人の言葉にうなずき感動する心です。
私たちは、みんな何かに深く感動する心を持っています。
例えば、テレビドラマや映画、スポーツなどを見て感動して涙することがあったりします。
けれども、始めから涙しようと思ってハンカチを握りしめていたりすることはありません。
感動してふと気がつくと、涙している自分に気がつくのです。
それは、頭でうなずいて感動するのではなく、感動している自身に気がつくということです。
これが「宜」です。
そして、気付いた時には、それは必ず歩みになります。
それが「機関」です。
機関というのは、エネルギーとかエンジンのことで、私たちは心の深いところからの促しによってうなずき、感動し、そしてうなずいた事実につき動かされて歩み始めます。
そういう存在として、私たちによびかけられているのが「機」という言葉です。
私たちの「生まれてからの願い」というものは、自分がかわいいということで塗りつぶされ、私たちはその思いだけで生きているのですが、しかしその一人ひとりの心の中にいのちそのものが求めている「生まれながらの願い」があります。
それは何かというと「人びと共に帰することのできる世界を求める心」です。
源信僧都が『往生要集』の中で地獄の様相を述べておられますが、一番深い無間地獄の苦しみを
われいま帰る所なし 孤独にして無同伴なり
という言葉で表しておられます。
「帰る所」とは、同伴者のいる所です。
この「同伴者」というのは、私の喜びを自分の喜びとし、私の悲しみを自分の悲しみとして、共に笑い共に泣いてくれる人のことです。
そうすると「私の人生を共に生きてくれる人が待っていてくれる所」が、私の帰れる所だといえます。
私たちは、誰もが自分でも意識しないような心の深いところで、そのような場を求めているのです。
そのような場を親鸞聖人は「浄土」という言葉であらわされました。
このような意味で、浄土とはすべての者の帰する所であり、すべての存在と敬いあい支えあいながら友として出遇える世界だといえます。
私たちは、親の願いのもとに生まれ育つと共に、その根底においては「人びと共に帰することのできる世界を求める心」、すなわち「生まれながらの願い」を呼び覚まそうとする、仏さまの願いの中を生きているのだと言えます。