縁とは、釈尊が説かれた縁起に由来する言葉です。
すべての物事は、多くの条件(縁)によって起こっているという教えで、例えばチューリップの花が咲いたという結果は、チューリップが自分の力で花を付けたのではなく。
球根、適切な温度・土質・水分・肥料・日光など計り知れない条件によって起こった結果であると教えているのが縁起です。
縁起は大切なことを教えてくれます。
今ここに私が生きています。
しかし、本当に私が生きているのでしょうか?私がこうして生きている背景には、産み育ててくれた両親、ご指導くださった先生、話を聞いてくれる友人、亡くなった方、私のエネルギーとするべく命奪った生き物、好きな人、嫌いな人、嬉しい経験、悲しい経験などなどなどなど、私の頭では想像することができない程の多くのご縁があります。
今の私は自分の力で生きているかといえばそうではなく、そういったご縁によって“生かされている”という事を教えてくださるのが縁起の教えです。
昔から、ご縁をいわば“陰”として、そこに“様”をつけて、「お蔭様で」と喜んでこられました。
命の足元とでもいいますか、それが縁起なのでありましょう。
“今・ここ”です。
しかし、次の瞬間には「明日は何をしよう。あれもしないといけない。これもしないといけない。忙しい。忙しい。」と心(命)ここにあらず。
縁起と言う教えは、今ここを深く生きることを勧めているようにも思います。
そして今ここにいる私は「南無阿弥陀仏」とお念仏をいただいております。
この念仏は阿弥陀仏が私に願いをかけ、はたらいてくださっている証拠です。
この命は阿弥陀仏に願われた命であり、この人生は阿弥陀仏に願われた人生であるといただいています。
これは大慶喜心と言われるほどのよろこび心で、私はお念仏によってそういう心をいただいております。
ですので、お念仏申すものにとって良い縁や悪い縁はありません。
悲しい縁も受け入れがたい縁も、そのご縁が念仏もうす私を支えているわけですから、すべてが尊いご縁です。
話しを戻しますが、ご縁とは今この命が生かされていることを教えてくれる言葉です。
合掌