「共生の時代」~No Charity, but a Chance~(前期)重いハンディを背負った人生

ご講師:山下達夫 さん(社会福祉法人太陽の家 理事長)

私は1959年、山口県下関市で生まれました。3人兄弟の末っ子でしたが長男ということもあり、両親は私の誕生を大変喜んだそうです。1歳2か月のとき、風邪が原因で高熱が続き、ポリオ(脊髄性小児麻痺)となり、四肢麻痺という重いハンディを背負って人生を歩むことになりました。一人では何もできない重度な障がいではありましたが、リハビリの甲斐があり自立できるまでになりました。

私の家族は私の障がいを隠すことなく、スポーツ観戦や旅行など家族であらゆる場所に出かけました。今では障がい者に対する理解も深まってきましたが、私が幼少のころは、障がい者が町に出かけると物珍しさで頭から足の先までずっと舐めるようにして見たり、近くに来て「どこが悪いのですか」「交通事故ですか」「施設に入られたらどうですか」など周囲の人たちの声や視線に、母は一時精神障害になったこともありました。

就学期を迎えたころ、両親は私を障がい者施設に入所させようと山口県内の養護学校(現在の支援学校)を訪問したのですが、障がいがあまりにも重度であったため断られました。途方にくれたようですが、下関市の福祉課に相談し、自分たちの考えのおろかさに気づいたそうです。それは障がい者だから普通学校には絶対に行けないという固定観念だったのです。母が授業の開始から終了まで私のそばに付き添うという条件で実家近くの普通学校の普通学級へ入学することになりました。普通学級では遠足や学習発表会、運動会等々、学校行事にもすべて参加しました。ハンディのある私には他の生徒と同じことはできませんが、行事があるごとに私からさせてほしいことを要望しました。障がいのことを一番分かっているのは障がい者自身です。障がい者自身が考え、自分に合った方法を積極的に発していくことが大事だと思います。

高学年から母が付き添う条件はなくなり、車いすを使わなかった私の教室移動などはすべて級友がおぶっての移動となりました。当時の学校教育では重度な障がい者はハード面から普通学級で学ぶことは困難でしたが、私の学校ではクラス全員、また先生方が私のことを理解し、そしてそれを行動に表していただいたこと、自然にみんなが接し、私も言いたいことを言う気持ち、できないことは仕方無いことだから手を差し伸べ、できることには口を出さず自分自身でさせるという気持ちが双方にあったため、クラス全員の理解を得ることができたと思います。

中学校時代に学校で火災が発生し、女子生徒が私をおぶって避難してくれたことがありました。このとき思いやりとは何かを考えさせられました。火事を聞きつけた母は私を助ける一心で裸足で丘の上の校舎まで駆け上がったそうです。母は私の困難を自分のことのようにともに感じるのですが、私を助けてくれた女子生徒たちは「日頃はひとりの男子生徒として見ている。避難時に偶然私がいたから無我夢中でおぶって避難した。ただそれだけのこと」と話していました。可哀想だから介護や保護するのではなく、不足分だけを力を貸して補ってあげる、困っているときだけ助けてあげる。これが思いやりではないでしょうか。

高校は、実家から離れた全寮制の支援学校に行きました。私はそこで見方や考え方が大きく変わりました。それまでは何かと人に頼っていましたが寮生活によって何でも自分でできるという自信が生まれたのです。

恩師が「君たちは勉強し、頭脳労働で社会へ出て勝負しろ。当たり前のことをしても社会は障がいのある君たちを認めてくれない。普通の人以上の頭脳を持て」と常に言っていましたので、私はがむしゃらに勉強しました。寮の消灯後には唯一灯りのあるトイレで勉強したり、将来は税理士になりたいと思ったので簿記学を勉強し、珠算も工夫して片手で試験に臨み3級を取得、全国珠算連盟から技術技能賞という賞をいただきました。