「年をとるということ」

先日、夫の祖母が100歳を迎えました。みんなで盛大にお祝いをと考えていましたが、コロナウイルスのために延期となってしまいました。それでも、9月の敬老の日には、近くにいる家族だけでお祝いに出かけました。

おばあちゃんは90歳代半ばまでは一人で暮らし、畑仕事などをしていましたが、数年前から足腰が弱くなり施設で生活しています。お祝いの日も「100歳だから」と特別に会うことができました。

総理大臣や町長さんからのお祝いの額とともにみんなで記念撮影をしました。みんなから「おめでとう!よかったね。」と声をかけられつつも、どこか寂しそうな顔です。その日は施設でも敬老会があったと聞いていたので、疲れたのかもしれません。1時間弱の面会でお別れしました。

帰路につきながら、『年をとるのも楽じゃないな』と思いました。以前おばあちゃんが「みんな先に行ってしまう。残されて寂しい」と話していたことがふと思い出されました。長生きすればするほど、親しい方を見送ることも多くなります。体も頭も思うように動かなくなり、食べたいものも食べられないこともあります。よく「長寿を願って」などと言いますが、『長寿』というのはかなり覚悟のいることではないでしょうか。

そのため、私はいつもおばあちゃんに誕生日のメッセージを送る時、どのように書いて良いか迷います。「いつもでもお元気で」はあまりに無責任な気がしますし、「これからもがんばってください」も失礼な気がします。結局いつも「体に気をつけてね、また会いに行きます」となってしまうのです。

さらに、施設での生活というのは何かと不便も多いことでしょう。好きな時に好きなこともできず、食べたいものも自由に食べられず・・・。

もちろん施設の方がいろいろと気を配ってくださっているから、元気でいられるという面もあります。しかし、おばあちゃんが本当にほしいものは、総理大臣からの額などではなく、自由気ままな生活かもしれないと思うことでした。

おばあちゃんに比べたら、まだ半分の歳にも満たない私です。この先どうやって年を重ねていくか、気づいたら重なっているのか、まだまだ見当もつきませんが、お世話になった方々のご恩に報いることができるように生きていきたいなと思います。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。