「修行」ということで、仏教・僧侶と聞くと何かしらの修行をしているイメージがあるかもしれません。修行は、滝に打たれたり、断食をしたり、瞑想をしたりして、煩悩を滅して悟りを開くというのがその目的です。
確かにそのような修行をされる宗派もあるとお聞きします。もちろんそれはとても尊いことだと私自身思いますが、浄土真宗では、悟りを目指すための方法として修行は行いません。なぜかというと、修行によって悟りを目指すことは極めて難しい道であり、ほとんどの人にとっては閉ざされている道だと言えるからです。
浄土真宗をお開き下さった親鸞聖人は、9歳から29歳まで比叡山で天台宗の教えに基づいて修行に励まれました。しかし、自身の煩悩を滅することはかなわず山を降りられました。そして、京都吉水の法然聖人の教えに帰依されます。法然聖人の教えは念仏の教えであり、仏さまによって救われる道、すべての人に開かれた道でした。親鸞聖人はその教えに自身の救いの道を見出していかれました。
蛇蝎奸許のこころにて 自力修善はかなふまじ 如来の回向をたのまでは 無慚無愧にてはてぞせん
親鸞聖人が遺されたご和讃ですが、行を修する上で親鸞聖人が最後まで悩まれたのは、ご自身のどうしても誤魔化すことの出来ない心の問題ではないかと思います。どこまでいっても偽りでしかない自分の心に深い悲しみを持たれている様子が伺えます。しかし、その悲しみこそ仏さまによって知らされた確かな救いであるという静かな喜びを見出されているようにも伺えます。
浄土真宗にとっての修行とは、もしかすれば心の問題に向き合うことかもしれません。そして、その問題は解決するというより、向き合い続けていくこではないかと思います。ある意味ではとても厳しい道かもしれませんが、仏さまによって開かれている道だとも思いますので、必ず歩むことが出来る道ではないかとも思います。合掌。