2022年4月法話 『縁起 縁によって咲き 縁によって散る』(後期)

この時期、

寺の境内は色とりどりの花が咲き、

お参りの方々の一つの楽しみになっています。

 

あたたかい陽射しの日には

境内にあちこちで人が立ち止まって

何やらお話をしている光景をよく見かけます。

立ち止まっている方々の足元には

花々が綺麗に咲いています。

 

ただ眺めるだけでなく、

携帯を取り出して、花を写真に収める方もしばしば。

 

先日も、写真を撮りながら

すぐ近くにいた私に話しかけてきたご夫婦がいらっしゃいました。

「この花は何という名前ですか」

「この花はツルコザクラですね」

「ああ、やっぱりそうですね。ではこの白い花もそうですかね」

「そうですね、色は違いますけど同じ種類ですね」

「こうしてお寺にある花の写真を撮って

施設にいる母に写真を送るんですよ。

なかなかお寺にいけないのですけど

花を見ると嬉しそうにするものですから」

そう話されるご夫婦のお顔には

あたたかい春の日差しに照らされて

やわらかい笑みが浮かんでいました。

 

この方々だけでなくて

やはり花を見ながら立ち止まっている方、

語り合っている方々、

写真を撮っている方に話しかけると

笑顔でいろんな話が始まったりします。

「家族とお別れして

寂しい気持ちでお寺に参っていますが、

仏さまに見守られながら

境内に響く園児さんたちの声に励まされて

こうして咲いている花々に癒されながら

私も頑張っていこうと思うんですよ」

そう語ってくださった女性の方のことも思い出されます。

 

お花は仏前に欠かせないお飾りです。

それは阿弥陀如来さまの

どんな時も一緒だよという

私に寄り添ってくださる

慈しみの心をあらわすためだと教えていただいています。

 

お参りできないお母様のことを思う優しさも

つらいけど頑張って生きていこうと思う勇気も

物言わぬ花が引き出してくれていることを思えば、

花は阿弥陀如来様のお慈悲をあらわすものだと受けためた

先人の思いに通じるものを感じます。

 

境内の楽しみと言えば

皆さんにかわいがられている、元捨て猫・今寺猫のメスの猫がいます。

この猫さん、つらい目にあったのでしょうか、

人のことが嫌いで、

寺に来た頃は吊り上がった眼をしていました。

 

でも何年も、お参りの方々に

名前を呼んでもらい、撫でてもらったりしているうちに

吊り上がった眼は垂れ目になり

近寄らなかった人のそばで

今ではゴロゴロと気持ちよさそうに

喉を鳴らしています。

 

ひっかかれても、けがをさせられても

にこにことして可愛がってくださった方々の愛情が

変えてくれたんですね。

愛されることの大事さは

人も猫も変わりませんね。

 

愛されることがどんなに大事なことかを

この猫から教えてもらっているようにも思います。

 

寺には、つらいお別れをして

悲しみをいっぱい持った方々が来られますが、

そんな皆さんがこの猫さんを囲んで

笑顔になっている様子をうかがうと

私たちもほっとします。

「この猫ちゃんに元気をもらってます~」と笑いながら

話してくださる方もいらっしゃいます。

 

こうしてみると

境内の花も猫も、大切な役割を担っていますね。

まるで、仏さまのお手伝いをしているようです。

 

皆さんにたくさんの笑顔を与えた花々は

種があり、大地があり、水があり、気温があり

それだけでなく、私たちの思いも届かないような

たくさんの条件が重なって

今ここに咲き、私たちに笑顔の花を咲かせました。

そして、風が吹き、雨があり、気温が変わり、季節が移ることで

花びらは散り、静かに大地に帰っていきます。

すべては「ご縁」なのです。

 

人が嫌いになるいろんな条件があったから、

吊り上がった眼をしていた猫も

たくさんの人に愛されるという

それまでと異なる条件が重ることによって

人に笑顔をもたらし、

時には悲しい人を励ますこともできるようになりました。

これもまた「ご縁」なのです。

生まれることも死ぬことも変わっていくことも

縁でないものなど何一つとしてありません。

 

私たちもこの縁の中に生かされ

この縁尽きて命を終わっていく存在です。

 

笑顔を与えてくれる出会いをいただいたことを

思い出してみましょう。

励ましてくれる出会いをいただいたことも

思い出してみましょう。

そう、それもまた「ご縁」なのです。

 

なかなか思い通りにはならない、ままならない人生ですが、

ひと時はひと時を精一杯に生きていくのです。

そう、「ご縁」によってね。