2022年5月法話 『思うこと 一つかなえば また一つ』(前期)

娘が生まれた時のこと。ある大先輩僧侶から「這えば立て、立てば歩けの、親ごころ」の一筆の入ったお手紙をいただきました。定番な言葉だなぁ、そんなものかなぁ、と思っていたのですが、本当に「そう」でした。生まれた頃の写真を見ると、4年ほど前なのに随分なつかしくもあり、もう赤ちゃんには戻らないなんだと思うと寂しくもあり、「赤ちゃんになーれ」と冗談で娘を抱きかかえると、今ではもう、「あたし、赤ちゃんじゃない」と言い返してくる。こうした成長の姿に、少し大袈裟かもしれませんが、「諸行無常」を感じ入らずにはおられません。時は流れていきます。

また、今となっては理由も動機も思い出せないのですが、ある時、「親子の方針」というモットー書きをしたためていたようです。パソコンに保存していた日付から一年ほど前の文章でした。

親子の方針~「身につく」を大切にする~
それは「しつけ」ではなく、「気づき」で、
その「気づき」から「自発性」が生まれて、
いろんなことが「身につい」ていく

書いた本人が忘れていたぐらいですので、本方針の連れ合いとの合意や、ましてや採用はなされなかったのですが、何か思うところがあったのでしょう。カッコ、笑いです(笑)。過去の自分に問うてみるならば、「いろんなことを、早くできるようになって欲しい」と焦っていたのでしょうか。

今、少し分りかけたことは、「娘自身が娘自身そのままで動きだしたなぁという感慨一つ」のような気がしています。ただ、私に「親ごころ」というものあるとして、たとえあなたが右往左往、右に左に揺れるとしても、「生きる方向性」というものはあるんだよ、ということは伝えたいと思うのです。

そして、さらに思うことには、右往左往して不安定に揺れているのは、なんと他の誰でもない私自身であったということです。ハッと気づいたことに、気づかされました。

親鸞聖人がたいへん尊敬された善導大師(613-681)は、「真の仏弟子」とは、「仏教に、仏意に、仏願に随順」する人と言われています。仏教や浄土真宗のみ教えに生きるとは、「仏の教え、意、願い」に沿って生きることであり、それがとりもなおさず、私と「みんなの方針」となっていく。「同行」という言葉がありますが、「みんな仏の子」である「御同行」の歩みのなかに、一緒させていただく者が仏弟子であると味わいたいと思います。

「みんな仏の子」の方針~「仏の教え、意、願い」に沿って生きること~
常に安定しない私を「そのまま救う」という
「南無阿弥陀仏」のご本願に「随順」して生きること。

いかがでしょうか。親鸞聖人ご誕生月の5月に「思うこと」として、記した次第です。