私たちは、日々どのような生き方をしているかというと、誰もが「自分の人生が自分の思い通りになること」を漠然と期待しながら…、ということになるのではないかといえます。そして、自分の思いがかなった時には「幸せ」だと感じたりしますが、思いがかなわないと「不幸」だと口にしたり、運命だとあきらめようとしたりしています。
また、自分の思い通りになった直後は、心は幸福感に満たされますが、その喜びがずっと続くかと言うと、時間の経過と共に感激はうすれ、やがて消え去ってしまいます。そして、消えるだけならまだ良いのですが、それが苦痛の種になってしまうということも少なからずあったりします。「こうなれたら、きっと幸せになれる」と思って懸命に努力し、ようやく手にしたはずなのに、その喜びがやがて消えてなくなるだけでなく、時として苦しみに変わるようなことがあるのだとすると、それは本当の意味で「幸せ」とはいえないのではないでしょうか。
かつて女性が、「結婚して幸せになります」と口にし、周囲の人たちも新婚の二人に「幸せになってください」と声をかけることがよくありました。その時よく思ったのは、「結婚して幸せになる」ということは、「それ以前は幸せではなかったのだろうか」ということです。確かに、生涯を共にしようと思えるような人と出会い、実際に生活を始めるようになるのですから、「幸せな日々を過ごしたい」、あるいは「幸せな人生を過ごしてほしい」と願うことはしごく当然のことです。けれども、結婚生活に入ると、周囲からかけられるのは「子どもは…」という質問です。結婚して幸せになれたはずなのに、なかなか子どもを授かることができずに悩んだりする人もいます。また、子どもを授かっても、成長する過程で子どもが何らかの問題を抱えていたり、いじめや学業不振、その他問題行動を引き起こしたりすると、そのことが苦しみになったりすることもあったりします。
その一方で「結婚しなくても幸せな日々を過ごしている」と感じている人もたくさんいます。それを裏付けるのが未婚率の高さです。近年、少子化の問題が大きな社会問題となっていますが、少子化の根底にあるのは生涯未婚率の高さです。2020年の生涯未婚率は、男性25.8%、女性女性16.5%、実に男性の4人に1人、女性の6人に1人が生涯未婚なのです。この傾向は今後も続き、2040年には男性30%、女性20%近くまで生涯未婚率はあがると推計されています。その理由は多岐にわたると思われますが、以前のように「結婚=幸せ」という価値観が揺らいでいることの表れなのかもしれません。
さて、一般に私たちが求めているのは、今の自分の状態を起点にして、これがこうなったら、あれがああなったらということで、いわゆる「現世利益」という言葉で言い表される事柄です。この現世における利益は、人によって中身は千差万別です。いま何らかの病気で苦しんでいる人は、財産を増やすことよりも健康になりたいと願いますし、元気な人は今のうちに少しでも財産を増やしたいと考えています。つまり、それぞれ具体的な状況の中で、それぞれが具体的な幸せを追い求めているのですが、それは常に「今の状態」を起点にした事柄です。
そして、それらの願いは満たされないと辛かったり悲しかったりするのですが、満たされると消えさってしまいます。例えば、就職に際して希望する会社に採用されると、その会社に入りたいという願いは消えてしまいます。けれども、やがて係長になりたいという願いが生まれ、係長になったら次は課長になりたい、課長になったら今度は部長になりたいといったように、一つかなえばまた一つの願いを持つようになります。次から次に新たな願いをもつことになるのですが、そのような願いは満たされないと辛く悲しく、満たされると消えてしまいます。
そうすると、願いが生まれては満たされると消え、消えるとまた新たな願いが生まれてくるといったことで、なかなか終わりが見えてこないままに人生そのものが終わってしまうことになりかねないのですが、あらゆる願いが満たされた世界を仏教で天上界といいます。天上界は憂いや悲しみがなく、喜びと楽しみにみちあふれた世界なのですが、やはり迷いの世界です。なぜかというと、天上界に生まれた天人にも五つの衰えが出てくるからです。その一番の問題を「不楽本居」といいます。これは簡単にいうと、所在がない、つまりここにいることの意味をまったく見いだせないということです。
私たちは、何かを果たし遂げたいという願いがあるときは、そのことに向かって夢中になって生きるということがありますが、ではそのすべてが満たされたとすると、その後に残るのは何でしょうか。一瞬の満足感のあとにやってくるのは退屈です。どれほど自分の願いが満たされたとしても、満たされることでその願いは消え去ってしまいます。そのため、いったい自分は何のために生きているのかということが分からないでいると、いきいきと生きることが難しいのです。それは、「このために生きているのだ」ということ、生きていることの意味が見つからないと、ただむなしい時間を過ごすことに陥ってしまうのです。
ともすれば私たちは、何ができるかとか、どれだけのことをしたかというところに人間の価値を見ようとします。けれども、私たちが現世の利益というかたちで、「ここがこうなれば」「あそがああなれば」と求めている状態は、いつどのような形でひっくり返るか予測することはできませんし、状況の変化によって消え去ってしまうようなものであれば利益とも幸せとも言えなくなります。
それにもかかわらず、私たちはいつも何かの思いが一つかなうと、すぐにまた一つの思いを抱いてなかなか足ることを知らずにいます。それは、例えば「きれい」と言って美しい花を摘み喜んだのもつかの間、「あの花もいいな」と言って新たな花を摘み、次々とそのことを繰り返すありさまに似ています。けれども、どけだけ花を切り採って集めてみても、それらの花は必ず枯れてしまいます。つまり、花という結果だけを求める在り方に終始しているのです。
日々、自分の思いが満たされることを求めながら生きている私たちですが、思いがどれほども満たされても、その喜びが続かず消え去ってしまうのは、私のいのちそのものが求めていることが満たされないからだといえます。人生は、しばしば旅をすることにたとえられますが、旅というのはいつも明日に期待する在り方です。明日はもっと美しい景色を見ることができるかもしれない、明日はもっと美味しいものを口にできるかもしれない。そのように、いつも明日に期待を持ちながら歩いて行くのが旅です。それは、現在に身を定めることのない在り方にほかなりません。確かに、考えてみますと、私たちはいつも次のため、次のためにと、未来のための「いま」を生きてるいるように思われます。けれども、私たちが生きているのはいつも「いま」、現在です。過ぎ去った「いま」のことを過去といい、未だ来たらざる「いま」を未来といいます。そして、未来への期待を生み出すのは、いつも過去に対する後悔です。それは、現在生きている「いま」に身を置くことが定まっていないというからです。そのような意味で、次の一瞬に対して惑うことのない生き方、言い換えると現在に身がすわるということがなければ、私たちは常に満たされる度に消える去るような願いを追いかけながら空しくいのちを終えていかざるを得ないということになってしまいます。
仏教という教えは、思いの満足を求めるその心を通して、私のいのちが求めているものは何かということを明らかにする教えです。様々な仏縁を通して、その語り掛けに耳を傾けていただきたいものです。