2022年5月法話 『思うこと 一つかなえば また一つ』(後期)

先日、髪を切りに行った時の店員さんの会話です。

「この前、厄年なので家族みんなで、有名なお祓いをしてくれる神社へ行ってきました。あまり興味なかったのですが、友人たちが結構な割合でお祓いに行っていると聞き調べた所、あそこの評判がいい、あそこはダメだなど、数ある中から選んで出かけたのは良かったのですが・・・。」

「朝早くから出かけて、何時間もかかってお祓いをし、なんとなく晴れやかな気持ちで、さあ帰ろうと車を出発させた次の瞬間・・・」

ガリガリガリ!

「慌てて車を降りて確認すると、隣に停めてあった車に接触していました。」

「その音を聞きつけ出てこられたのが、先ほどお祓いをしてくれた方で、あっという顔をされた後、私の車ですと一言。一体何をしに行ったのか分からなくなりました。」と苦笑いされていました。

私たちの身の回りには、占いや迷信が数多くあります。書店に行っても膨大な関連書籍には驚きますが、同じ数だけ私たちが求める欲望や願いがあるということになります。

民放ニュース番組のお天気予報の後には、必ずといっていいほど「今日の運勢とラッキーアイテム」と放送されている状況です。

ラッキーアイテムを持てば、自分にとって良いことが必ず起こると思っている方は少ないでしょう。

お祓いもそうですが、悪い事・嫌な事(不幸な事)が起きないよう神仏に祈願に行きますが、その願いがかなうとは限りません。

浄土真宗の大きな特徴の一つとして、「現世祈祷を必要としない」ということが言えます。

浄土真宗の現門主であられます専如(せんにょ)ご門主は、お念仏(南无阿弥陀仏)をお聴かせいただく私たちに「念仏者の生き方」という法話をお示しくださいました。(※詳細は西本願寺HPにて「ご門主の法話」を検索ください)

「私たちはこのありのままの真実に気づかず、自分というものを固定した実体と考え、欲望の赴くままに自分にとって損か得か、好きか嫌いかなど、常に自己中心の心で物事を捉えています。その結果、自分の思い通りにならないことで悩み苦しんだり、争いを起こしたりして、苦悩の人生から一歩たりとも自由になれないのです。このように真実に背いた自己中心性を仏教では無明煩悩といい、この煩悩が私たちを迷いの世界に繋ぎ止める原因となるのです。」と、私たちの自分勝手な姿を見つめられています。

一つ、願いや思いがかなっても、次の瞬間には次の願いや欲望が生まれます。

どんなに厳しい修行を重ねても、喜びや悲しみを経験しても、命終えるその時まで煩悩を拭い去ることができない私です。

だからこそ、私から願うのではなく「仏様」の方から、必ず救う我に任せよと、お念仏(南无阿弥陀仏)となり願いをかけてくださっているのだとお聞かせをいただきます。

さらに専如門主は、「私たちは阿弥陀如来のご本願を聞かせていただくことで、自分本位にしか生きられない無明の存在であることに気づかされ、できる限り身を慎み、言葉を慎んで、少しずつでも煩悩を克服する生き方へとつくり変えられていくのです。」とお示しになり、どこまでも自己中心的で、自分の都合で善し悪しを決め一喜一憂する日暮らしだからこそ、仏法を聴かせていただくことで、生き方をつくり変えられていくのだとお示しくださいました。

空しいままに終わっていく命は一つもない、必ず仏様に抱かれてお浄土へ生まれさせていただくのだから、現世祈祷は必要ないのです。

共々に少しずつ、仏様のお心をお聴かせいただきましょう。

合掌

南無阿弥陀仏