仏像には、浄土真宗の御本尊(阿弥陀如来)のように、右手を上げ、左手は下げて、共に手の平を前に向け、それぞれの手の親指と人差し指で輪を作る手の仕草や、鎌倉の大仏のように両手を膝の上で組み合わせるもの、奈良の大仏のように右手を上げて、左手を下げるものなど、仏像によって両手の仕草には様々な違いや特徴があります。
それらは、それぞれの仏さまの教えであったり、願いであったり、私たちに対する慈悲の心であったり、様々な意味が込められており、印相(いんそう)と言われています。
ここで、印相についていくつか紹介したいと思います。
まず、両手を膝の上で組み合わせる鎌倉の大仏の印相は、定印(じょういん)といいます。
大日如来や釈迦如来坐像(ざぞう)に多く見られる姿勢で、禅定印(ぜんじょういん)とも呼ばれることもあるように、深い瞑想に入られている姿を表しています。
阿弥陀如来の定印は、人差し指を親指につけて輪を作るようにしてあることもあり、鎌倉大仏はその印相を結んでおられます。
次に、右手を上げて、左手を下げ、五指を真っ直ぐに伸ばしておられる奈良の大仏の印相は、右手を施無畏印(せむいいん)、左手を与願印(よがんいん)といいます。
施無畏印は相手の畏(おそ)れをなくし、与願印は相手の願いを聞き届けようという姿勢を表しています。
この2つはセットで用いられることが多く、釈迦如来像に多く見られる印相です。
最後に、私たちの浄土真宗の阿弥陀如来の印相ですが、実は宗派によって二通りの違う解釈の仕方があります。
一つは来迎印(らいごういん)で、もう一つは摂取不捨印(せっしゅふしゃいん)という意味合いです。
これは阿弥陀如来特有の印相とされ、来迎印は臨終の際、阿弥陀仏が西方極楽浄土より迎えに来るときの姿とされています。
浄土真宗では「来迎印」ではなく、人々を摂め取って決して捨てないという阿弥陀仏の慈悲の心を表すお姿、「摂取不捨印」といただいています。
親鸞聖人のお言葉に、
「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚(しょうじょうじゅ)の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり」
とあります。
親鸞聖人は、臨終の瞬間までみ仏の救いを待つ必要はなく、平生においてすでにみ仏に摂取不捨されているという救いを明らかにされています。
それは、死に直面している人々の寂しさや不安を軽視したのではなく、お念仏の教えに出遇い、平生においてお念仏申して生活をしている人は、すでにみ仏に抱きとられ護られていることを明らかにされているのです。
摂取不捨の阿弥陀仏の慈悲のお心により、死ぬ時の迎え方の善し悪し問うことなく、どのような最期を迎えても、必ずお浄土に往生するということを説かれたのです。