「親鸞聖人における信の構造」9月(中期)

ここでは、誰にでも分かる悪事は、しばらく除外することにします。

いわゆる殺害、盗み、邪淫等の類です。

それは、 人間社会には倫理の目が存在していますから、このような悪は人間の知恵で制御することが可能です。

したがって、たとえどんなに悪事がはびこる社会であっても、その社会においては悪人よりも善人の数の方がはるかに多いといえます。

それ故に、人間社会では「善」の力の方が、「悪」の力に勝っているのです。

したがって今ここでは、人間の悪事を問題にするのではなくて、「善意」の矛盾性を問題にしたいと思います。

そこで、家庭について考えてみます。

端的には夫婦と親子の関係ですが、この絆は愛であり、彼らは最も強い善意で結ばれています。

ところがこの家庭に、時として悲惨な事件が起こります。

それも他のために一心に尽くしているはずであるにもかかわらず、悲劇が起きることがあるということです。

それは、なぜでしょうか。

ここで他のために尽くす時、何が必要かを見つめてみます。

それは、相手が本当に何を願っているのか、その心を知ることだといえます。

では人は、その他人の心の内実を知ることができるでしょうか。

いうまでもなく、それは不可能です。

だとすれば、自分が相手に尽くすためには、自分が一心に相手の心を推し量り、おそらくこれが相手にとって最善だと思われることをなすしか方法はありません。

ところが、それはまさに自分にとっての善ではあっても、決して相手にとって完全なる善ではないということに注意しなければならないのです。

私たちは、相手のために尽くすという心をもっています。

その尽くした行為が、もし相手に通じて喜ばれたならば、それは自分にとっても大きな喜びとなります。

けれども、もし逆に尽くした行為が拒絶されて、悪意でもって受け取られたとしたらどうでしょうか。

それが一心に尽くした行為であればあるほど腹立たしく、怒りの心が自然に生じます。