「親鸞聖人における信の構造」9月(前期)

なぜ人間社会に「善」が求められるのでしょうか。

また、人間にはなぜ倫理が必要なのでしょうか。

それは、人間は社会的にしか生きられない動物だからで、社会生活を営む上では、個人の勝手な行動は許されません。

人と人とが生きるためには、お互いが生きるための規則がどうしても必要となります。

その規則を「善」あるいは「倫理」と呼ぶならば、人が人として生きるためには、必ず善行をなさなくてはなりません。

けれども、善行をなすことのより積極的な理由は、まさにそれこそがその人の生き甲斐になるからです。

日常生活を振り返ってみて、

「今日はとても楽しく、充実していた」

と言えるような一日のことを思い出してみるとよいのですが、そのような日には必ず自分自身

「これこそが善だ」

と思う事柄に積極的に関わっていたり、その行為が願い通りの成果を上げていたりします。

あるいは、他人に迷惑をかけたり、害を加えたときのうしろめたさと比べて、他人を救ったり、役にたったりしたときの清々しさはどうでしょうか。

また、テレビや映画・小説などの善人と悪人を前にしたとき、私たちはほとんどの場合、自分を善人の側に重ねて感情を移入しています。

このように見れば、人は普通、善にあこがれ、善を求め、善をなすことに喜びを感じているといえます。

ところが、もし本当にそうだとすると、ここに奇妙な矛盾が生じます。

それは、私たち一人ひとりの心を開くと、人は誰もが善をなそうとしているはずであるにもかかわらず、その人と人とが集まる現実の社会においては、多くの悪が溢れ返っているのです。

いったい、なぜそのような矛盾が生じているのでしょうか。