その象徴的な出来事が、2002年12月10日の毎日新聞に掲載された記事です。
この日の毎日新聞の第一面には
「祈り公認」
という大見出しのもとに
「浄土真宗本願寺派 宗教の原点−否定の歴史見直し」
という中見出しの記事が載ったのです。
その記事のだいたいの内容は、次の通りです。
『浄土真宗はもともと合格祈願や無病息災といった現世の利益を求めない、祈りを行わない宗教であるということを自他共に認めてきました。
このことは親鸞聖人の時代からの伝統で、現世の欲望からくる祈りは、仏教的な視点から不純な動機にもとづいて発する行為であるとして
「雑行雑修」
という言葉で否定してきました。
このことを踏まえて、本願寺教団内では今日まで祈りを否定してきたという歴史があります。
ところが、本願寺教団の教学研究所の所長さんが
「祈りにはもっと深いものがある。
それは宗教の原点であり、本質だ」
との立場から
「祈りとは、聖なるものと人間との内面的な魂の交流であって、あらゆる宗教の核心である。
祈りの概念というのは単なる現世祈祷、現世のご利益を求めるというような心よりももっと広い。
祈りのない宗教はありえない。
」
ということを述べられ、祈りをもっと広い視野から考えるべきだ、と祈り否定の見直しを提言された』
ということが大きく掲載されたのです。
この記事の内容は、本願寺教団における教学問題を扱う研究所の所長さんの発言であったことから、教団内でも大きな問題となり、賛否両論がわきおこりました。
そこで、この記事に対して本願寺教団は
「そうではない。
浄土真宗は祈りのない宗教である」
と、これまでの在り方を踏襲した主張を行いました。
そして、2003年1月30日の
「本願寺新報」
では、第一面を使って
「浄土真宗は祈りなき宗教」
という題名で詳細な説明がなされました。