そこで、毎日新聞の記事が提起した
「祈りという宗教心をもっと広い立場で受け止める必要がある」
このことについて、私たち真宗者は、それを自分の問題として受け止めてみる必要があるように思われます。
さて、今日私達は浄土真宗の教えをどのように教えられているでしょうか。
「浄土真宗の教えは他力本願である。
一切の救いは阿弥陀仏の本願力による。
それゆえに、自力の念仏をとなえてはならない。
神仏に自ら祈る必要はない。
」
と教えられています。
さらに
「私たちが信じるのは阿弥陀仏一仏であって、他の諸神諸仏諸菩薩等を一切信じてはならない、また拝んではならない」
と教えられている訳です。
(これは「積極的に否定せよ」と教えているのではなく、あえて信仰・礼拝の対象とする必要はないということです。
)
それはまさにその通りだと言えるのですが、
「自力の念仏をとなえてはならない、祈る必要がない」
ということを念頭に置いて、その上で、ではいったい私たちは真宗者として毎日どのような宗教的行いをしているかを考えてみると、どうでしょうか。
朝夕、家庭のお仏壇の前で、あるいはお寺参りをした時など、阿弥陀仏の尊前で手を合わせて頭を下げていますが、ではそのような時に、私たちはいったいどのような自覚のもとに合掌・礼拝を行っているでしょうか。
つまり、どのような宗教的意識をもって、手を合わせて阿弥陀仏を拝んでいるかということを問い直してみて頂きたいのです。
それを行っている時に、横から
「あなたは、今どのような心で拝んだのですか」
と問いかけられると、もしかすると戸惑われる方が多いのではないでしょうか。
つまり、大半の方は
「実のところ、ただ無意識に手を合わせて拝んでいるだけ」
であって、そこでは
「特に何も意識していない」
というのが、正直な思いだと推察されます。
けれども、そこで
「求めることも、祈ることもしてない」
とすると、ではいったい私たちはそこでどのような宗教的行為をしているのか、ということが問題になるのではないでしょうか。