「親鸞聖人の他力思想」12月(中期)

この

「本願寺新報」

に書かれている内容は、もちろん本願寺教団における

「公式見解」

ということですから、宗学におけるいちばん偉い方が書かれていますので、浄土真宗の教学から見た祈りの意味内容については、まったく誤りがないと言えると思います。

では、いったい問題はどこにあるのでしょうか。

それは、毎日新聞が提起した

「祈り公認」

という記事と、この

「本願寺新報」

の内容に大きなズレが生じていることが問題なのです。

いったい何がどうズレてしまっているのかといいますと、先ず毎日新聞の記事の内容は、決して

「本願寺教団が現世利益の祈りを認めた」

ということを述べた訳ではありませんでした。

そこでは

「本願寺教団は伝統的に祈りということを否定してきたが、祈りという言葉にはもっと広い意味がある。

したがって、宗教的祈りの本質を見落とせば、他の多くの宗教で語られている祈りをも全て否定してしまうことになる。

もう少し広い意味で、祈りという行為を見ることが大切なのではないか」

ということを提起しているのです。

これに対して、教学研究所の所長さんが、その問題提起は宗教における大切な問題であるとの理会を示されたのです。

ところが、本願寺教団はその問題提起の内容よりも

「祈り公認」

という見出しの方に敏感に反応してしまったのです。

そこで、これまでの伝統的な在り方を踏まえて

「浄土真宗には祈りはありえない。

現世利益の祈りは絶対に認められない」

という従来の主張を繰り返すことになった訳です。

こうして、両者の内容はまったくズレてしまうことになったのですが、毎日新聞の

「祈り公認」

という表現には、少なからず誤解を与えかねない面があったことも否めないように思われます。