「親鸞聖人の他力思想」1月(後期)

そこで、改めて毎日新聞の記事をもう一度問題にすることにします。

この記事には

「浄土真宗では、阿弥陀仏への感謝の心で念仏を称えるとき、浄土に往生して仏になることが決まるとされる」

と書かれています。

もし、この記事の中で唯一間違っているところがあるとすると、この箇所になります。

浄土真宗では、誰でもすぐに

「報恩の念仏」

「感謝の念仏」

が大切だといいます。

しかし重要なことは、私たちにとって

「自らの往生が定まること」

です。

阿弥陀仏の救いを信じ、往生が確かになることが何よりも大切なのです。

それが

「獲信」

なのですが、私たちは獲信してはじめて感謝の念仏を称えるのです。

阿弥陀仏は私たちに

「念仏せよ、救う」

と誓われたのであって、決して

「感謝の念仏を称えよ」

と誓われたのではありません。

したがって、救われていることが明らかになったとき、自然に感謝の心が出てくるのだといえます。

まさに報恩の念仏とは、救われているからこそ称えることができるのだといえます。

信心もなしに、阿弥陀仏と向かい合い、無感動・無関心・無気力でいる者が、感謝の念仏など称えられるはずはありません。

少なくとも、阿弥陀仏を信じないで、そのまま救われことなどあり得ないのです。

では、他力本願とはいったいどのような教えなのでしょうか。

ここで重要なことは、私たち本願寺教団に所属する誰がはっきりと

「信心をいただいている」

と言いうるかということです。

その信を覚知できる人が誰もいないということになりますと、私たちの教団の全体が、まだ信心をいただいていない者の集まりということになってしまいます。

そうなりますと、信心をいただいていない者にとって、念仏とは何か、阿弥陀仏を礼拝するとはどういうことか、阿弥陀仏と関わろうとするということはどういうことかということを問わなければ、これは宗教として、教えも何も成り立たないことになってしまいます。

そこで、親鸞聖人が説かれた阿弥陀仏の教え、他力とはどのような意味かを、具体的に文にそって考えてみることにしたいと思います。